山口城  No20213-01 (やまぐちじょう)       

主郭北方向 南端の堀切

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 飯山市旭字城平
築城年 :
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、横堀、虎口、
訪城日 : 平成26年10月26日

歴   史
山口城は、岩井氏の居城と伝えられている。
岩井氏は、外様平一帯に根を張った豪族の泉氏の一族で、文明年間(1469〜87)に高井郡岩井の地に分家し、のち山口に移住したと伝えられている。しかし、岩井氏を泉氏系とすることに疑問を持ち、高梨系であるとする説もある。
史料では、永禄6年と推定される「上杉輝虎書状案」に「その口(飯山口)の備えとして、安田惣八郎人数に、岩井備中守(満長)を相添え差し越し候」とあり、岩井氏は越後在住と窺えるが、天正10年(1582)の「岩井文書」に「信州本領」とあり、永禄年間(1558〜70)頃は越後在住であったとしても、山口を含む南条地域を本領としていたと考えられる。上杉謙信にとっても、飯山城の背後と越後春日山へ通じる富倉道を押さえる重要な位置で、戦略上の意義をもっていた。
天正10年(1582)6月、上杉氏の相続争いに際して景勝派として功があった岩井民部少輔信能が、景勝より本領及び替差・静間・蓮・岩井の地を与えられ、飯山城の改修にもあたり、城下町も整備し、近世飯山発展の基礎をつくった。しかし、慶長3年(1598)景勝の会津転封に伴い、信能もそれに従い、山口城は廃城となった。

構造と感想
山口城は、飯山市の外様平の南部にある山口集落の西方背後の城山山上に築かれている。
城山は、標高582m、比高220mで、北西に僅かに尾根が延びる以外独立山状を呈している。その北端の頂部に主郭を置き、南に向かって下る尾根筋上に二郭、三郭を堀切で区画し、連郭式に配している。各郭には腰郭や帯郭が付帯し、主郭と三郭は土塁を伴っている。唯一尾根続きの北西方は、鋭い四重堀切を入れ厳重に遮断している。北東の支尾根には四郭を置き、その南側山麓にある御屋敷との間の山腹に土塁を伴った長大な空堀を二重に構え、その南端に小郭を置いている。この防御線は、東支尾根先端に入り込む谷筋を隔てて築かれた小城とともに、この城の北東への備えを強固なものにしている。

道 案 内
上信越自動車道の豊田飯山インターを降りた豊田飯山インター入口交差点を右折し国道117号に入る。国道を北東に5.8km程行くとY字路があり右手の飯山バイパスへ入る。飯山バイパスを2.3km程北上すると左手に飯山城があり、そこから北に970m行った有尾交差点で左折して国道292号に入る。国道292号を西に2.3km程行った道が右にカーブする所に山口集落の標柱があり、そこを右折し集落内に入る。310m程北進した突当り(城址の標柱あり)で左折し、直ぐ先のY字路(案内石碑あり)を左手に進み、230m程行くと十字路があり真っ直ぐ進む。その後は道なりに坂道を上って行くと、右手に鳥居、鳥居脇に山口城址石碑の立つ所に至る。その参道が登城口である。道路脇に駐車可。

:城跡      :登り口 TOPへ 戻る

 
登り口             主郭の土塁と虎口

 
御屋敷跡                御屋敷の東下の馬場