山田城  No20209−06 (やまだじょう)       

主郭北方向 主郭・二郭の堀切

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 伊那市高遠町下山田
築城年 :
形  式 : 山城(860m/100m)
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、虎口
訪城日 : 平成30年3月18日

歴   史
築城年代は定かではないが、明徳年間(1390〜94)に山田を領した山田左衛門尉を祖とする山田氏によって築かれたと云われる。
文明14年(1482)保科氏に奪われた藤沢城を取り戻すため、高遠へ出陣した小笠原長朝に攻められたが、これを防いで撤退させている。
天文14年(1545年)山田氏は高遠頼継とともに、武田晴信に降ったとみられるが、天文18年(1518)には山田新左衛門が伊那衆とともに武田勢と金沢峠で戦い、新左衛門は討死した。新左衛門の子 弥介は武田氏に従い二十騎の将となり、武田勝頼に最後まで従い天目山にて殉死している。その後、一族が高遠城主・保科氏に仕え、保科正之が山形へ移封となった際にも付き従った。

構造と感想
山田城は、三峰川南岸の下山田集落南側に南の山陵から北東へ張り出た尾根の先端部に築かれている。
中心部は堀切を挟んで西側の主郭と東側の二郭から成り、両郭の堀切側に土塁が築かれている。主郭の西側から北側の山腹には数条の竪堀が落とされ、北側は畝状に入れられている。
主郭から北東、東、西南、北西に支尾根が伸びている。東尾根には、堀切、二郭、堀切、小段郭が数段続き、それらの南側下に一段、北側下に三段の帯郭も設けられている。西南尾根は、三重の堀切で厳重に遮断され、さらに60m程離れもう一条堀切が入れられている。北西尾根は、急勾配で三日月状の小段郭が7、8段設けられ、北東尾根には、帯郭、やや傾斜を伴った広い郭があり、さらに小段郭が数段設けられている。
主郭と二郭の外は、やや傾斜のある郭がほとんどである。

道 案 内
中央道伊那インターを下り県道87号線の南東方向に入る。そのまま南東方向に2.8km程行くと国道153号との水神橋西交差点に至る。その交差点を右折し1.1km程南西方向に行った入舟交差点で左折して国道361号に入る。直ぐに大橋を渡り引き続き国道361号を東に進み、9km程先の高遠町中心部を通り抜けて藤沢川を渡る。その先の高遠公園下交差点で右折し国道152号に入る。国道152号を530m程進み小原交差点で西方向に直進し県道209号線に入る。県道209号線を西に520m程走ると左手にガソリンスタンドがあり、その手前で左折し、30m程先で右折、道なりに270m程進むと坂を登り切り、左側に戻るような細い道があり、そちらへ左折する。その先150m程の右手に家があり、手前に山に入って行く道がある。付近に駐車可。
山へ登ると直ぐに用水路があり、その上にもう一本の用水路が見える。そこまで直登し、用水路沿いを左手に進み、下の写真の小さな橋から山道を登れば北東尾根から城跡に至る。

:城跡        :登り口 TOPへ 戻る

 
上の用水路の橋          車道からの登り口

 
主郭より二郭を望む        主郭の南側土塁

 
南尾根の三重堀切       三重堀切からの竪堀

  
二郭北側下の帯郭         北東尾根の郭