横山城  No20201-04 (よこやまじょう)       

二の郭から主郭を見る 主郭北側の土塁

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 長野県長野市箱清水1丁目(城山公園)
築城年 : 南北朝時代
形  式 : 平山城
遺  構 : 土塁、堀切
訪城日 : 平成26年10月27日

歴   史
横山城の築城者については定かでないが、南北朝期以降たびたび戦乱の舞台となっており、築城時期は南北朝期と推測されている。
観応2年(1351)の足利尊氏と直義兄弟が争った観応の擾乱で、直義方の祢津宗貞が尊氏方の小笠原為経・光宗、高梨経頼らと衝突し、横山城を攻めたが落とせなかったという。
応安2年(1369)には、守護の入国を阻もうとする村上氏らの国人衆に攻められていた春山城の上遠野左近蔵人を救出するため、関東管領上杉朝房が藤井下野入道の護る横山城を攻撃、この時、善光寺が焼失した。
さらに、嘉慶元年(1387)5月、守護の斯波義種に反抗する村上頼国が小笠原清順や高梨朝高、長沼太郎(信濃島津氏)らの国人衆と善光寺に挙兵し、守護代二宮氏泰が籠城する横山城を攻め落としている。
応永10年(1403)には、大塔合戦(応永7年に信濃守護・小笠原長秀と村上氏・井上氏・高梨氏・仁科氏ら国人衆が争った合戦)以来の混乱を収めるため、細川兵庫助慈忠が幕府代官として横山城に入り、これに反発した村上満信、大井光矩、井上光頼、小笠原為経らが横山城を攻めたが撃退されている。
戦国時代になると甲斐の武田信玄が北信濃に侵攻、これに対抗する越後の上杉謙信と善光寺平で衝突を繰り返すようになる。
弘治元年(1555)第2次川中島合戦で長尾景虎(後の上杉謙信)は横山城に本陣を置き、犀川対岸の大堀館を本陣とする武田晴信(後に信玄)と対峙した。景虎は武田方の旭山城を封じる葛山城を裾花川対岸に築き南下を開始したが、勝敗は決せず対陣が200日余と長期化し、今川義元に調停を依頼して和睦、両軍は撤退した。
さらに、永禄4年(1561)第4次川中島合戦で、妻女山に陣取った上杉軍の主力とは別に横山城と旭山城に別働隊がおり、上杉軍の主力の撤退を援護し、上杉軍はここ横山城に集結したとされる。
川中島が武田領になると横山城は家臣の相木氏が管理し、武田氏が滅び、上杉領になると廃城になったようである。

構造と感想
横山城は、善光寺東側に隣接する城山に築かれた平山城で、善光寺平を見下ろす比高40m程の段丘上に位置している。
現在、一段高い主郭には彦神別神社が鎮座し、北側に土塁が残っている。主郭の北、東、南側を一段低いニノ郭が取り巻き、その東斜面には小さな腰郭が付帯している。ニノ郭の南北側は堀切で区画され、堀切を隔てた南側の蔵春閣の建つ区画も郭と考えられている。
現在、主郭とニノ郭の北側の道路までに城跡らしさが残るが、それ以外は市街化や公園化で往時の姿を留めていない。

道 案 内
上越自動車道の須坂長野東インターを降りた須坂長野東IC交差点で左折、西方向に県道58号線を進む。4.3km程西進した南長池交差点で右折し県道375号線に入る。北に1.4km程走った運動公園南入口交差点で左折し、国道18号に入る。国道18号を170m程西進した東和田交差点で右折し国道406号に入る。国道406号を4km程西進した若松町交差点で右折し、県道37号線に入る。県道37号線を600m程北上した横沢町交差点を右折し、東に200m程行き、善光寺西交差点で左折する。北方向の120m程先で右折、そして310m程東進した城山公園西交差点で左折する。50m程北のT字路で右折し、200m程東進した変則十字路で斜め右の細い道に進む。90m程先で右折し、長野市公文書館の駐車場に入り駐車する。その南側の彦神別神社が建つ土壇が主郭である。

TOPへ 戻る