大倉城  No20201−01 (おおくらじょう)       

主郭西方向 主郭・二の郭間の堀切

城郭の概要                  
別  名 : 大蔵城
所在地 : 長野市豊野町大倉字城山
築城年 : 寛元年間(1243-46)
形  式 : 山城
遺  構 : 堀切、竪堀、土塁、石積、井戸、
訪城日 : 平成26年10月26日

歴   史
大倉城については、寛元年間(1243-46)小笠原信濃守長清が築城し、九男与市長澄が大倉氏を称して居住したと伝えられている。
文献史料では、弘治3年(1557)に葛山城が武田方によって落城させられた際、「島津方も大蔵之地へ先づもつて相移られ候」とあるのが初見で、この史料から大倉城が島津貞忠によって掌握されていたことが分かる。また、永正10年(1513)に貞忠が長尾為景に宛てた書状で、島津氏が本領の長沼城と共に大倉城、手子塚城を保持していたことが記されており、島津氏が千曲川西岸の河西交通網を支配していたことが分かる。
しかし、永禄年間(1558〜70)武田氏の善光寺平支配が進み、長沼城が武田方の手に帰すると、島津氏は諸城を放棄して上杉氏を頼って越後に奔り、城は荒廃の一途をたどった。その後、天正10年(1582)3月の織田信長の信濃侵攻と武田氏滅亡により、川中島四郡は森長可の支配する所となったが、翌4月その支配に反対する芋川親正を中心とする土豪・地侍らによる善光寺一揆が蜂起した。一揆勢は飯山城を占拠、長沼城を攻撃し、大倉城を再建して立て籠もったものの、織田方が反撃に転じ、飯山・長沼両城を確保し、大倉城を乗っ取って、女・童を千余切り捨て、更に山中を探索し、人質をとって百姓の環従を図ったと云われている。

構造と感想
長野盆地を流下した千曲川が信越国境に連なる山間部に入る直前に鳥居川と合流する。大倉城は、その合流点の北方にある標高539mの城山山頂に築かれている。城の北側に嘉児加川、南側に鳥居川が流れ、北国東街道が走り、北に向かうと飯山城に通じる飯山道も交差し、さらに支城の手子塚城の渡し場で千曲川を渡ると中野道にも通じる交通の要衝に位置している。
城の構造は、東に伸びる舌状尾根の先端ピークに主郭を置き、東側に堀切を隔てて二の郭、三の郭を連ねる連郭式である。主郭の北西側一段下に井戸郭が付帯し、その西側の尾根続きには三本の
大きな堀切を入れ、その内と中の堀切の間には更に3条の小堀切を設け、厳重な遮断を図っている。主郭東側は堀切を挟み二の郭で、三段に分かれている。二の郭の東側は大きく落ち込み土塁を隔て本城中で最小の三の郭となる。三の郭の北斜面に竪堀が2本落ち、三の郭東側の土塁を越えると堀切が入っている。その先は砕石場で消失している。
主郭両側の深い堀切、二の郭東側の急激な落ち込み、切岸に入った石積や石組井戸など良好な遺構を楽しめる。

道 案 内
上越自動車道の信州中野インターを下りた信州中野IC交差点を左折し県道29号線に入る。西に1.2km程行くと蟹沢トンネルで、トンネルを抜け760m程で国道18号との大倉中央交差点に至る。その交差点で右折し国道18号に入り、560m程西進した大倉交差点で右へ入ると、左手に登山口の案内板がある。案内板背後に駐車スペースがある。用水路沿いに進む。

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井戸郭と坂土塁       石組井戸

 
    二の郭の石積         二の郭北斜面と三の郭