笹尾塁  No19407−01 (ささおるい)       

1の郭南方向 2の郭北方向

城郭の概要                  
別  名 : 笹尾砦、笹尾要害
所在地 : 北杜市(北巨摩郡)小淵沢町下笹尾
築城年 : 享禄4(1531)
形  式 : 丘城(崖端城)
遺  構 : 土塁、堀切、空堀、竪堀、虎口
訪城日 : 平成22年11月22日

歴   史
享禄4年(1531)逸見今井氏が諏訪氏と結んで叛乱を起こし甲斐は混乱していた。この際、諏訪勢の甲斐への侵入を予測した武田信虎が、諏訪の領地である笹尾に要害を築き、諏訪下社の牢人衆を置いた。この要害が笹尾塁である。
しかし、笹尾塁は諏訪軍の侵攻により、闘わずして自落したが、その後も今井氏は抵抗を続けたものの、3月3日の韮崎河原辺の合戦で壊滅的な打撃を受け、天文元(1532)年9月本拠地の獅子吼城を開城し降伏した。これにより武田氏による甲斐統一が実現した。
天文年間(1532〜55)になると武田氏が諏訪氏を圧迫するようになり、笹尾塁は武田方の諏訪侵攻の重要な拠点になっていった。
天正10年(1582)武田氏が織田信長に滅ぼされ、その信長も本能寺の変で明智光秀に討たれたため、武田氏の遺領をめぐり徳川家康と北条氏直が争う天正壬午の乱が起こった。その際、若神子城に布陣した氏直が笹尾塁も使用したと考えられるが、大きな改修は受けていないとされる。

構造と感想
笹尾塁は、釜無川の左岸に張り出した八ヶ岳西麓の舌状台地先端部に築かれている。釜無川からは100m程の比高あり、東側には谷が入り入り込み、台地続きとなる北側に四本の堀切や空堀を入れ防備を固めている。しかし、西側は谷の食い込みが浅く、台地と殆ど同レベルであり、郭の西側には高さ2、3m程の土塁を設けている。公園整備された1の堀から南側の1と2の郭に土塁や虎口、城道が良く残っている。
なお、1の堀から北側は耕作地として利用され改変が著しいため、旧状が失われている。

道 案 内
中央自動車道の小淵沢インターを下りた小淵沢IC入口交差点を左折し県道11号線に入る。西に1.6km程行った松木坂交差点で左折し県道17号線に入る。東に2.5km程道なりに進みJA梨北小淵沢支店前交差点で右にカーブし、引き続き県道17号線を980m程南下する。緩い左カーブを曲がり終えた十字路(篠生郵便局の160m手前)で右折し細い道に入る。1.3km程南下したY字路で右手に入り200m程南下すると3の郭跡の広い駐車場に至る。この南側が1、2の郭で、北側が3の郭から6の郭である。

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                   2の郭北側の土塁と空堀

 
1の郭西側土塁           1・2の郭間の虎口