獅子吼城  No19403−02 (ししくじょう)       

主郭北方向 主郭の虎口

城郭の概要                  
別  名 : 江草小屋、江草城
所在地 : 北杜市(北巨摩郡)須玉町江草字城山 
築城年 : 不明
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、横堀、竪堀、堀切、石積み、虎口
訪城日 : 平成22年11月22日

歴   史
獅子吼城の築城時期、築城者については定かではないが、鎌倉時代末期の元応2年(1320)に信田小右衛門実正・小太郎実高親子がこの城で討死したと「甲斐国社記・寺記」にあり、応永年間('1394〜1428)には武田信満の三男江草兵庫助信泰が居城したと「甲斐国史」にある。永正6年(1509)には小尾弥十郎が草江城を乗っ取ったと「高白斎記」にあるが、前後の事情は不明である。
なお、「武田源氏一流系図」によると、信泰は25歳で没し、跡は弟の今井信景が継ぎ、永正年間(1504〜21)以後まで続いている。「妙法寺記」などに今井信是・信元の時になり武田信虎と争ったが、享禄5年(1532)の戦いで敗れ、以降、武田氏に臣従すうようになったとある。
天正10年(1582)3月武田氏が滅亡し、その武田氏を滅ぼした織田信長も同年6月本能寺で明智光秀に討たれ、甲斐に入部していた信長の家臣・河尻秀隆も蜂起した甲斐国人一揆に討たれた。これにより空白となった甲斐を巡って、徳川家康と北条氏直が争った天正壬午の乱が起こり、信濃から南下した北条軍が獅子吼城を占領したが、服部半蔵率いる伊賀組と周辺の国人たちに攻められて落城。その後、和睦が結ばれ、甲斐は家康が領し、信濃方面への繋ぎの城として獅子吼城を石垣造りの城に改修したと推測されている。また、天正18年(1590)家康の関東移封により獅子吼城は役割を終え廃城になったと考えられている。

構造と感想
獅子吼城は、塩川の東岸にある独立峰に近い別名「江草富士」と呼ばれる円錐形をした城山の山頂部に築かれている。この周辺は中世では農耕の適地と考えられ、また、塩川の対岸には信州峠を越え信濃佐久へと通じる小尾街道が走る交通の要衝でもあった。
城山は、岩石がいたるところに露出する岩山で、それを石材に城の随所に石積みを築いているのが特徴である。
構造は、山頂部の広く平坦な主郭を中心に、北東と南西の尾根筋に石積みを用いた腰郭を配置している。主郭は東側に石塁を付帯させ、その北側に巨石の間を通り外桝形に出る虎口を設けている。南西尾根筋は、縁辺部に岩石が散乱する郭が何段か続くが、崩壊が著しく明瞭さを欠いている。北東尾根筋には、縁辺部に石積みを築いて平坦にした郭が四段続き、五段目は外側に土塁を伴った横堀が円弧状にめぐる。横堀の南東端は石積みを用いた枡形虎口を構えている。その下方にも腰郭や竪土塁、竪堀がある。虎口を出て東の尾根へ進むと楕円形の一郭があり、堀切で区画されている。その外が改変が進んで旧態は不明である。
東尾根から横堀の虎口、虎口から主郭までは、郭や石積みが良く残り、城内道もしっかりとしており、見所の多い城跡である。

道 案 内
中央自動車道の須玉インターを下りた玉須インター入口交差点で右折し国道141号に入る。国道141号を北に2.3km程行った西川橋西詰交差点で右折し県道601号線に入る。県道601号線を道なりに5km程行くと県道23号線に合流し、直ぐトンネルに入る。トンネルを出て630m程先で右折し橋を渡って城跡の案内がある突き当りで左折し山道へ入って行く。1.3km程登ると尾根に到達し、右手に民家が数軒あり、民家の方へ右折すると城跡の案内板がある。この裏手の尾根道を進むと城跡である。道路の余白に駐車。

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北東側二段目の石積み          横堀東端の虎口

 
横堀               竪土塁

 
東尾根の堀切         東尾根の竪堀