深草城  No19405−01 (ふかくさじょう)       

主郭と中郭間の仕切り土塁と虎口 中郭の東側土塁

城郭の概要                  
別  名 : 深草館、深草塁
所在地 : 北杜市(北巨摩郡)長坂町大八田字南新居
築城年 : 平安末期
形  式 : 丘城
遺  構 : 土塁、横堀、堀切、虎口、
訪城日 : 平成22年11月20日

歴   史
平安末期(1156)頃に谷戸城を本拠とした甲斐源氏の祖逸見清光の嫡男光長の居館が深草城であったと伝えられている。
戦国時代は、『甲斐国誌』に「相伝フ清光ノ臣堀内某居之。子孫堀内下総守ノ子主税助ノ時城陥リ落胆セシト云々。塁湟今モ全ク存セリ」とあり、堀内下総守は『武田家過去帳』に元亀・天正年間(1570〜92)頃の武田家家臣とあり、武田氏滅亡後の天正壬午の乱で下総守の子主税助が北条氏に与したため没落したと推測されている。
なお、深草城の裏手一帯(金生B区)が昭和55年に発掘され、巨大な建物跡が発見され、中国の青磁・白磁・染付など15、7世紀の磁器類、鉄砲玉などが見つかり、堀内氏よりかなり有力な武士(逸見氏か)の城と考えられるようになっている。

構造と感想
深草城は、八ヶ岳の緩るく落ちる山裾の台地の縁に築かれている。台地の縁に西衣川が流れ、台地側を堀の役割を果たす用水路で切断し、北の台地続きも堀切で遮断し防御を固めている。城内は南北に連なる三つの郭に区画されており、北端が主郭で、四囲に土塁を付帯させ護っている。中郭との間の土塁中央に平入り虎口を開けている。中郭は東と西側に土塁が残るが、その南側の郭は全ての土塁が消失しており、現在は中郭と一帯になっている。南郭の南西隅から坂道が下っており城外へ通じる大手道である。
城内に草や灌木は殆んどなく見通しが良い。高さ1〜2m程の土塁や深さ5m、幅7〜10mもある堀を十分に楽しむことが出来る。

道 案 内
中央自動車道の長坂インターを下りた長坂IC入口交差点で左折し県道32号線に入る。200m程東進し、高架下を出て直ぐ長坂IC東交差点を左折する。高速沿いに220m程北上した長坂IC北交差点を右折し、930m程北上した右手に光洋電子の工場がある交差点で左手に進む。480m程西進すると人家を抜け小川を渡り田んぼに出る。60m程先で右折し、190m程北上した右手にちょっとしたスペースがあり、そこに車を停める。この目の前(東側)が城跡である。
なお、深草城は、金生遺跡の230m程南西、谷戸城の1.2km程南南西に位置している。

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 南側の堀          北よりの遠景