中山の付城  No18442−01 (なかやまのつけじろ)       

主郭の西虎口 主郭の土塁

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 三方郡美浜町佐柿
築城年 : 永禄7年(1564年)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀・
訪城日 : 平成27年11月7日

歴   史
永禄7年(1564)朝倉氏によって築かれた。
武田義統は叛旗を翻した三方郡の被官を越前朝倉氏に要請し攻めさせた。永禄6年(1563)より朝倉勢は、太田村の芳春寺に本陣を置き、その後方裏山に向城を築き、地侍が立て籠もる国吉城と対峙した。この向城が中山の付城で、城将は朝倉一族の太郎左衛門景恍と伝えられている。
中山の付城を拠点に朝倉勢は山東郷に乱入し田畑を荒らし回り、これに対し永禄8年(1565)国吉城の粟屋氏勢は中山の付城を夜襲して焼き払い、朝倉勢をいったん追い払ったが、永禄10年(1567)中山の付城に代わる狩倉山城を築城し、国吉城の付け城とした。
この国吉籠城戦は、織田信長の若狭侵攻を受けて朝倉勢が撤退する天正元年(1573)まで続いた。

構造と感想
中山の付城は、太田郷と山上郷の間に南北に連なる三つの山稜の中央、芳春禅寺の西背後に位置する標高145.5mの山頂に築かれている。南西2km先には、国吉城を望むことが出来る。
南北に長い山頂に周囲を高さ1.5m、巾2mの土塁で囲繞した主郭を置き、北東隅と中央よりやや南寄りの東西側に虎口を開く。北東虎口の北側には前郭が付帯し、更に二段の腰郭が設けられている。主郭南西隅の土塁は幅が広く櫓台と推測されている。櫓台南側一段下に井戸郭とされる小郭があり、その先を高低差4mの空堀で区画している。西虎口を出ると北に向かう通路で前郭と、東虎口は東郭に通じている。
主郭南端から東に延びる尾根にも一段下がった細長い東郭がある。東郭の南面には高さ1mの土塁を付帯させ、東面を鉤型の土塁で囲み、それらの隙間を虎口としている。また、東郭の先端にも空堀を設け区画するが、東尾根を下れば本陣の芳春寺に通じている。
戦場における臨時の見張り台であるが、土塁や堀切を巧みに使い、高い技術水準を誇る城跡であり、また、遺構の残りも良好である。

道 案 内
北陸自動車道敦賀インターを降りて、料金所を越えた最初の分岐で左手に進むと国道8号バイパスに入る。1.3km程南下した分岐で左手に進み右カーブに入る。カーブを過ぎるとJR北陸線を潜る。最初の交差点「岡山町1丁目」を直進し国道27号に入る。国道27号の5km程先に旗護山トンネルと佐田トンネルが連続しており、二つ目の佐田トンネルを出た450m先の分岐で左手に進む。最初の交差点で右折し県道118号線に入る。220m程先の左手山裾が芳春禅寺で、本堂を右手に見ながら寺の裏手に進むと山裾のフェンスに一ヶ所ゲートがある。そこから入り、右手の尾根上に登り、尾根筋を左手へ登って行くと城跡に至る。

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北東隅の土塁端      城址碑   

 南端の堀切           東尾根の堀切と土橋