吉崎御坊 No18208−01 | (よしざきごぼう) |
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蓮如上人像 | 本堂跡 |
◆ 城郭の概要 |
別 名 : |
所在地 : あわら市(金津町)吉崎 |
築城年 : 文明3年(1471) |
形 式 : 城郭寺院 |
遺 構 : 空掘、土塁 |
訪城日 : 平成22年6月26日 |
◆ 歴 史 |
文明3年(1471)5月比叡山延暦寺などの迫害を受けて京を逃れ近江を経て吉崎に下向した本願寺第八世蓮如が、本願寺系浄土真宗の北陸布教の拠点として、同年7月に吉崎山(御山)の頂に建立したのが吉崎御坊である。 開山後は、各地から信者が集まり寺内町が急速に形成されたが、文明6年(1474)応仁・文明の乱が勃発すると、加賀国では東軍に属した富樫政親と西軍に属した富樫幸千代の兄弟による内紛が発生し、蓮如の意志に反して、門徒衆は政親と共に幸千代や専修寺門徒と戦うようになり、文明7年(1475)には吉崎の地まで戦火が及び、蓮如は吉崎を退去して若狭から河内出口へと移った。 その後、門徒衆は一向一揆と化し、一大武装集団となって長享2年(1488)には高尾城に政親を攻め自害に追い込んだ。これにより加賀国は約100年に亘り、「百姓の持ちたる国」となった。 永正3年(1506)3月加賀国の支配を固めた加賀一向一揆は、越前で起こった一向一揆に加勢すべく越前に侵攻、九頭竜川を挟み越前守護・朝倉孝景の軍勢と対峙したが敗れ、吉崎御坊は朝倉氏によって討ち壊され廃坊となった。 |
◆ 構造と感想 |
吉崎御坊は、日本海近くの越前と加賀の国境付近にあり、日本海と通じる北潟湖に北・西・南の三方を囲まれた小高い丘である吉崎山(御山)の頂に築かれていた。その頂部は削平され東西約150m、南北約130m、面積約2haの台地になっており、南面した柱間5間4面の本堂、その正面中央に向拝があって、中に御本尊と親鸞聖人の御影像を安置し、本堂の西側に庫裡と書院があった。 現在、御坊跡は公園で本堂跡の石碑や蓮如上人像などが立つのみであるが、北東山麓には、江戸時代の延享3年(1746)に西別院(本願寺派)が、翌4年に東別院(大谷派)が建立されており、寺院の建ち並ぶ姿に当時の繁栄が偲ばれる。 |
◆ 道 案 内 |
北陸自動車道の加賀インターを下りて左折し県道61号線に入る。1.5km程行った三木交差点で左折し国道305号に入る。道なりに3.2km程行くと左手に無料駐車場がある。その南東奥に吉崎御坊跡がある。 |
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![]() ![]() 西別院の太鼓櫓 東別院の山門 ![]() ![]() 本堂跡の石碑 切岸 |