安居城  No18201−07 (あごじょう)       

主郭の虎口 主郭

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 福井市金屋町
築城年 : 南北朝期
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、虎口、
訪城日 : 平成23年10月22日

歴   史
足羽7城(和田城、安居城、波羅蜜城、藤島城、高木城、黒龍城、溝ヶ城(高木城)を云う。)の一つとされる安居城は、南北朝期に越前守護斯波高経の家臣細川出羽守が築いたとされる。
延元元年(1336、建武3年)、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞は恒良親王、尊良親王を奉じて苦戦の末金ヶ崎城に入城したが、足利方の越前守護斯波高経らの軍勢に包囲され、翌2年(建武4年)義貞は弟脇屋義助と共に城を脱出し、杣山城で金ヶ崎城救援の態勢を整えたが、同年3月足利方が城内に攻め入り、尊良親王と新田義顕(義貞嫡男)は自害し、恒良親王は捕縛された。
翌3年(暦応元年)、義貞は金ヶ崎城を奪還し、平泉寺宗徒らを味方に引き入れ、高経を黒丸城(小黒丸城と大黒丸城)に追い詰めた。高経は黒丸城を中心とする足羽7城に拠って抗戦、藤島の戦いで義貞は敗れ、討取られた。
戦国期に入ると朝倉氏景の弟経景が入城し、朝倉時代後半には子孫である孫三郎景健が居城していた。景建は元亀元年(1570)の「姉川の戦い」で朝倉方の大将を務めた武将であった。しかし、天正元年(1573)朝倉氏滅亡の際には当主義景を裏切り信長に降り、姓を安居と改め、引き続き居城した。翌年2月越前国内に一向一揆が蜂起すると景健は一向一揆と和して信長に対抗したため、信長から自刃を命じられた。その後、柴田勝家支配時の天正3年(1575)には柴田源左衛門尉勝定が城主になった伝わり、天正13年(1585)には豊臣秀吉より戸田武蔵守勝成が1万石を与えられ入城し、関ケ原の合戦で西軍に属し改易され城は廃城になった。
なお、足羽7城については諸説あり、「城跡考」では小黒丸城、勝虎城、藤島城、波羅蜜城、安居城、江守城、北庄城としており、江守城の代わりに和田城を入れる場合もある。

構造と感想
安居城は、福井市西部、日野川に南から足羽川が合流する地点の西側に、北から日野川に向け突き出した尾根の先端部に築かれている。後方には国見嶽がひかえた天然の要害であると同時に、「安居の渡し」を押さえる交通の要衡に位置している。
構造は、尾根先端部を切り込み、南北30m、東西40m程のよく削平した主郭を創出し、その南東隅に土塁を伴った食い違い虎口を設けている。主郭から南に延びる尾根には、幅7、8m、長さ50m程の副郭を配し、先端に堀切を入れていた。現在、堀切跡には潰れたホテルが建っている。さらに、尾根の最先端にあたり川沿いにある一段高い与須奈神社は安居城の出城と思われる。

道 案 内
北陸自動車道の福井北インターを下り、料金所を出た最初の信号で右折し、南に110m程行った福井北IC交差点を右折して国道416号に入る。国道416号を西に8.1km程行った堀ノ宮交差点で国道は右折するが、そのまま直進して県道251号線に入る。県道251号線を1.9km程進むと突き当たりで、そこを左折し南に500m程行きT字路先を直進する。1.3km先の日光橋手前の信号交差点で右折、日野川沿いを340m程西進すると右手の高台に与須奈神社がある。この手前の路地に右折し、100m程進むと溜池があり、この溜池奥から整備されたハイキング道が付いている。池の脇に駐車可。

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      虎口の土塁                    城址碑


副郭