末森城  No17386−01 (すえもりじょう)       

本丸 本丸よりの眺望

城郭の概要                  
別  名 : 末守城
所在地 : 羽咋郡宝達清水町(押水町)南吉田、竹生野
築城年 : 天文19年(1550)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、空掘、土橋、礎石、
訪城日 : 平成22年6月27日

歴   史
築城時期は明らかでないが、天文19年(1550)能登守護代であった遊佐続光が、同じく守護畠山氏の重臣で抬頭する温井総貞を押さえるべく抗争を引き起こした際、末森城主の土肥但馬が川尻で遊佐氏の前進を遮たと伝わり、これが末森城の初現とされている。
天正5年(1577)上杉謙信が能登に侵攻して来ると但馬は降伏して、斎藤朝信らが末森城に入ったが、七尾城攻めでの戦功が認められ、引き続き但馬が城主として配された。
しかし、天正8年(1580)柴田勝家が加賀一向一揆を鎮圧し、その先方である佐久間盛政が末森城に攻め寄せると、但馬は再び降伏し、前田利家の与力的な立場となり、以後、末森城は前田氏が支配するところとなった。天正11年(1583)但馬は賤ヶ岳合戦で討死し、急遽末森城には弟の土肥伊予が入り、城の補修を行ったが、本丸には前田氏家臣の奥村永福が入っており、実質は永福が城主となった。
その後、天正12年(1584)徳川家康に同調した越中の佐々成政が前田氏攻撃のため、1万5千の軍勢で末森城を囲むが、城将の永福らはわずかな兵で城を死守し、利家の急援もあって、成政軍を撤退へと追い込んだ。この末森合戦を契機に利家は越中に勢力を伸ばし、加賀、能登、越中の三国に支配を広げたが、末森城は元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。

構造と感想
末森城は、羽咋郡宝達志水町竹生野にある戦国時代の山城である。南北にのびる海岸砂丘に東から宝達山系の一つ標高138.8mの末森山が張り出して平野が狭まる、能登南部の交通の要所で、越中にも近く、加越能3国の接点に位置し、重要な拠点であった。
構造は、末森山山頂に本丸を置き、連郭式に南側へ二ノ丸、三ノ丸、若宮丸、若宮が配され、それぞれ段差や空堀で区画されている。この主要な郭を囲むように二重に腰郭が巡っている。また、二ノ丸から三ノ丸の東側下方には馬掛場と称される大きな削平地があり、城主館があったと考えられている。三ノ丸と若宮丸の間に小丸大手門があり、西に伸びる支尾根が大手筋であり、少し下ると武家屋敷群とササラ木戸が設けられ、導線を防御している。小丸大手門を入り城道は北に折れ、三ノ丸と二ノ丸の東側裾を通り本丸へと通じている。二ノ丸の手前には空堀に土橋が架かる大手門が構えられている。搦手は、本丸北側の郭の東に二段、西に一段の郭を設けている。
山中に多数点在する郭の合計面積は3万m2にも及ぶそうで、重要拠点とされただけあって、かなり大規模な山城ではあるが、その割には造りは簡単で、山容も険しくなく、防御力は高くないように思われる。また、城跡は全体的に草が覆っており、遺構は確認しずらい状態で、やや残念である。

道 案 内
北陸自動車道の金沢東インターを降りて国道8号バイパスの能登方面に入り、9km程北上したランプで国道159号に入る。国道159号を14.4km程北上した免田交差点で右折し、引き続き国道159号を走る。5km程北上すると運送会社と自動車販売店が両側にあり、そこから340m程先の道路案内板のあるT字路で左折し国道471号に入る。左折後150m程先で右折し、細い道に入り道なりに230m程進むと駐車場があり、本丸まで15分という看板が出ている。

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二ノ丸南側の堀切と土橋       空堀

 
登り口