七尾城  No17202−01 (ななおじょう)       

本丸北側の石垣 桜馬場北側の石垣

城郭の概要                  
別  名 : 松尾城
所在地 : 七尾市古城町
築城年 : 正長年間(1428-29)頃
形  式 : 山城
遺  構 : 石垣、土塁、空堀、天守台、虎口、移築門
訪城日 : 平成22年6月27日

歴   史
七尾城は、室町幕府三管領家の一つである畠山氏の有力庶流として、応永15年(1408)畠山基国の次男満慶が能登守護を賜り興した能登畠山氏が、能登府中(守護所)にかわる新たな拠点として築いた山城である。
その築城時期は定かではないが、文明・応仁の乱(1467〜)が起こった3代目義統の頃に築城が開始され、5代目義致の頃まで府中にあった守護館が7代目義総の代までには七尾城内に移り、大規模城郭として整備されたと考えられている。
さらに、能登畠山氏の末期、8代目義続、9代目義綱の頃には急速に増強、改修が加えられ弘治3年(1557)義続、義綱みずから「当城 いよいよ堅固に候」と誇っており、戦国期の山城に相応しい規模と機能を備えるに至ったと見られている。
また、この時期には家臣団の温井氏、遊佐氏、長氏などが家中で勢力を争うようになり、永禄9年(1566)には義続、義綱が城を追われ10代目として義慶が守護職に就くという事件も起きた。そして、天正2年(1574)には義慶が暗殺され幼主春王丸となり、天正5年(1577)上杉謙信に七尾城を攻められ、遊佐統光の裏切りもあって、遂に七尾城は落城、能登畠山氏は滅亡した。これにより七尾城は上杉氏の有するところとなり、鰺坂長実が城代として入城したが、一向一揆を破った織田軍が北陸に攻め込み、天正9年(1581)七尾城は落城、能登は前田利家に与えられ、利家は一旦七尾城に入ったが、天正10年(1582)港に近い小丸山に小丸山城を築き居城にしたため、七尾城は廃城になったと考えられている。

構造と感想
七尾城は、七尾市街を見下す石動山系から北西に張り出した急峻な城山を中心に築かれた戦国期拠点城郭で、能登国を170年間に亘って支配した戦国大名・能登畠山氏の居城である。
城域は、標高310.4mの主郭を中心として、東西約1km、南北約2kmの広い範囲に及び、西の大谷川、東の木落川に挟まれ北西に伸びる尾根の先端まで幾重にも郭が配置され、一部は大谷川の西岸や木落川の東岸にも及んでいる。さらに、山麓には総構えに囲繞された屋敷地に加え、城下町が形成されており、北陸を代表する政治・経済・文化の中心地であった。
構造は、本丸から一段下がって北に続く、遊佐屋敷、桜馬場、西の丸、温井屋敷、二の丸までが一体の主郭群で、その南北端に大堀切を入れ区画している。主郭群は、遊佐屋敷北側下方の調度丸を含め石垣造りとなっている。その石垣は、数段に重ねて積む構築法で、累々と重なる姿は一気に積み上げられた高石垣に劣らず壮観である。主郭の北東隅には天守台が、南西隅には一段下がって突き出した石塁囲みの桝形があり、外桝形虎口を形作っている。外桝形虎口から一段下がって遊佐屋敷、桜馬場、温井屋敷、二の丸がほぼ等高であり、石塁や土塁で区画されている。桜馬場の一角が一段高くなっているのが西ノ丸である。調度丸も石塁で東西に区画され、西側が虎口郭で、西面に石段を上がって入る平入り虎口が設けられている。この虎口と背後斜面の石垣の眺めが圧巻である。また、本丸からの市街地や日本海が見える眺望も素晴らしい。
主郭群から尾根先端に向けては、三の丸、袴腰、沓掛、番所跡、時鐘跡、高屋敷と続いている。また、本丸背後の堀切を隔て木落川の東岸になる長屋敷の郭群が広がっている。大谷川の西岸には古府城平支群が築かれており、櫓台や土塁囲いを伴う異なった構えになっているようでる。

道 案 内
国道8号津幡バイパスの河北郡津幡町舟橋で国道159号に入る。国道159号を道なりに北上して七尾市に向う。七尾市内に入り城への道路案内表示板のある藤野町北交差点で右折して県道177号線に入る。県道177号線を道なりに5km程上って行くと七尾城本丸北駐車場に至る。

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            本丸の巨大な城址碑

 
  温井屋敷の桝形虎口      調度丸虎口と背後斜面の石垣

 
本丸からの眺望         本丸の天守台

 
本丸背後の堀切             調度丸