鳥越城  No17347−01 (とりごえじょう)       

本丸桝形門 本丸の土塁・櫓台・櫓門

城郭の概要                  
別  名 : 別宮城
所在地 : 白山市(鳥越町)三坂町
築城年 : 天正初年頃(1570年代)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、空堀、堀切、土橋、櫓台、虎口、石垣、井戸、
訪城日 : 平成22年6月26日

歴   史
鳥越城は、天正初年頃(1570年代)織田信長による加賀一向一揆の討滅が進められるなかで、白山麓門徒組織である山内衆の代表・鈴木出羽守(雑賀鈴木氏の一族とされる。)によって、一向一揆の抵抗の拠点として築かれた。
永禄11年(1568_)から続いてきた織田信長と本願寺との石山合戦は、天正8年(1580)3月に本願寺顕如が信長に屈し終わった。同年4月加賀一向一揆の拠点の尾山御坊(のちの尾山城・金沢城)も信長方の柴田勝家によって落とされ、鳥越城が一向衆の最後の拠点となったが、ここも柴田軍の猛攻を受け落城、鈴木一族は謀殺され滅んだ。その後、鳥越城は織田方の吉田次郎兵衛の管理下に置かれたが、翌天正9年(1581)山内衆が蜂起して次郎兵衛を討ち、鳥越城と二曲(ふとげ)城を奪還するものの、天正10年(1581)3月には勝家の甥で尾山城主の佐久間盛政によって鎮圧され、吉武壱岐の居城となった。この結果、一揆は解体、3百余名の門徒衆が磔となり、白山麓の村々は廃村同様となり、以後三年間は荒地と化したと云われている。

構造と感想
鳥越城は、手取川と大日川の合流点より上流2.5kmの両川に挟まれた手取谷の中央に南より張り出す丘陵先端部に築かれている。城域は、東西400m、南北1,200mにおよび、頂部に本丸を構え、北側に後二の丸と後三の丸を、南側に中の丸と二の丸、そして三の丸を連郭式に配し、空堀や堀切で区画している。本丸・二の丸・後三の丸の側面には、郭を囲うように帯郭状の腰郭が巡らされている。
昭和52年から三か年に亘って発掘調査が実施され、その成果に基づき、本丸の南面に設けられていた石垣で築かれた桝形虎口の櫓門と城門が復元されており、さらに土塁の無い西側には柵列も建てられ、当時の雰囲気が感じられる。他の郭にも礎石や掘立柱、中の丸櫓門、倉庫などが復元されており、楽しめる城跡である。 

道 案 内
北陸高速道の小松インターを降りて右折し県道25号線に入る。1.6km程南下した城南町西交差点で左折し国道360号に入り、東に道なりに16.3km程行くと三坂トンネルに入る。トンネルを出て1.8km程下ると別宮北交差点に至りそこで左折し県道44号線に入る。県道44号線を北に1.1km程行くと右手に分岐する林道入口があり、その林道を1.3km程上った終点に駐車場があり、直ぐ上が城跡である。

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城址碑             本丸の桝形虎口

 
  中の丸と二の丸     本丸・後二の丸間の空堀と石垣

 
  後二の丸の空堀      二の丸・三の丸間の堀切と土橋