横尾城  No16343−02 (よこおじょう)       

本曲輪西方向、奥の高台は見張台 中曲輪南側の空堀と武者隠し

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 下新川郡朝日町横尾
築城年 : 鎌倉〜戦国時代
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、横堀、土橋、虎口、櫓台
訪城日 : 平成24年11月3日

歴   史
横尾城は、越中越後を結ぶ北国街道を押さえるように、国境近くに北方の海側へ張り出した横尾の山があり、12世紀頃佐味庄の豪族佐美太郎が百山の峠を掘り割って道を通し、城を築いたのが始まりとされる。南北朝時代(1331〜94)の建武4年(1337)には、越中守護普門(井上)俊清らが、南北1.5kmの尾根の7箇所を堀切で断ち、山を削って六郎山・上百山・扇山などの砦を段状に設け、越後の南朝勢に備えた。戦国時代の永正6年(1509)には、越後守護上杉定実および越後守護代長尾為景(謙信の父)が反抗の拠点として城を改修、さらに佐々氏が越後の上杉氏に備え改修した。北東約1.3kmの宮崎城とも密接な関係を持ち、両越国境の守りに使用された。

構造と感想
横尾城は、北東の宮崎城と笹川を挟み対峙した南北に連なる馬鬣山山頂に築かれている。
上横尾地区にある長願寺は横尾城の平時の居館跡とされ、横尾城へは中部北陸自然道の遊歩道が整備されている。馬鬣山山頂に近づくと西側先端に入る堀切が現れ、150m程の平坦な尾根筋が続き、尾根の東端部で再び堀切があり横尾城の主要部となる。まず半円形の主曲輪を置き、次に土橋の架かる横堀で区画された中曲輪が付帯し、中曲輪の南側に南曲輪、東側に横堀で区画された東一の曲輪と東二の曲輪、さらに東曲輪の北側に二の曲輪と北曲輪が続いている。各曲輪は横堀や土塁によって囲まれ、中曲輪の北西に竪堀が落ちている。このように当城の防御は東側に向けられている。
この城の複雑な縄張りを楽しみにしていたが、城域は草木がやや多く遺構の確認はままならないのが残念であった。

道 案 内
陸自動車道の朝日インターを降りて国道8号の東方向に入る。国道8号を2.7km程東進した横尾西交差点を右折し県道103号線に入り東に230m程行った右側の上横尾公民館に案内板が出ている。城跡へは案内板から南の長願寺を目指し、南へ180m程南下し突き当りで左折する。東に40m程行ったY字路で右手に進むと直ぐの左手に長願寺の墓地駐車場がある。そこに駐車させて頂き、手前のY字路まで戻り右折して用水路を越えて中部北陸自然道を登ると城跡に至る。

 :城跡  :登り口     TOPへ  戻る


登り口


本・中曲輪間の土橋
 
主曲輪北西の竪堀             西端の堀切