森寺城  No16205−01 (もりでらじょう)       

本丸の石塁と虎口 二ノ丸北西側の空堀

城郭の概要                  
別  名 : 湯山城、井山城、
所在地 : 氷見市森寺
築城年 : 戦国期
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀、石垣、井戸
訪城日 : 平成22年6月27日

歴   史

築城年代は定かではないが、永正19年(1519)能登守護畠山義総が越中守護畠山氏からの独立を目指す守護代神保慶宗を討伐するため越中に出陣し、湯山城(廃城後に城跡が森寺地区にあったため森寺城と呼ばれるようになった。)を拠点に慶宗の籠る二上山城の攻略を図っており、この頃に築城されたと推測されている。
その後も能登畠山氏の支城として機能し、弘治3年(1557)能登守護畠山義綱に反した家臣温井続宗一派が湯山城で勝利、永禄11年(1568)七尾城を家臣によって追われた畠山義続・義綱父子が湯山城を一時拠点とした。
天正4年(1576)七尾城攻略を目指す上杉謙信が能登畠山氏の将湯山左衛門続甚の守備する湯山城を落とし、家臣の河田主膳をこの城に常置させた。天正5年(1577)謙信は七尾城を落とし能登を制圧したが、翌天正6年謙信が急逝したため上杉勢は能登から撤退した。
すると天正7年(1579)織田方と意を通じた守山城主神保氏張とその客将長連龍が、河田主膳の守る湯山城を攻め落城させた。天正9年(1581)織田配下の佐々成政が越中に入り、翌年に氏張が失脚し、湯山城は成政の手に委ねられた。成政は湯山城に斎藤信利を入れ守らせた。
しかし、天正10年(1582)本能寺の変で織田信長が斃れ、成政は反羽柴の立場から隣国能登の前田利家と対立、湯山城は前田との最前線となったが、天正13年(1585)羽柴秀吉の越中出陣で成政は降伏、まもなく湯山城は廃城になった。


構造と感想

森寺城は、氷見市北部、能登との国境近く、阿尾川中流の東岸、森寺集落の背後に聳える標高162mの「城山」を中心に築かれている。また、城からは氷見から能登へ抜ける峠越えの荒山街道を見下すことができ、戦略的に重要な城であった。
構造は、南北に細長く連なる丘陵の尾根部を削平して南北約1.1km、東西約0.4kmの範囲に郭群を配している。中央部の城山頂部に極めて広い削平地を設け、その南西隅に北側と東側を外面を石垣で固めた土塁と空堀(発掘調査で発見)で方形に仕切り本丸を築き、本丸の北側から東側にかけて広大な二の丸を配し、さらに本丸の南側に約3m下がって三ノ丸を連ねており、連携の取れた構造となっている。
しかし、主要部の南側大手筋には、谷や鞍部を隔ててサイダ屋敷、野崎屋敷、カンジャ屋敷、金戸山などが配されているが、連携性に乏しく独立性が強くなっている。また、北側搦手筋には、食い違いの搦手口を構え、本丸への通路も食い違い堀切を何か所も入れ、意図的に通路を曲げ、さらに東側上方に幾つもの郭を設け、厳重な制圧を図っている。大手に比べ搦手の防備は極めて厳重のように思われる。
城域全体に遺構の残りは良好で、土塁、堀切、竪堀、井戸、さらに主要部の虎口や土塁など重要部分には石垣も残っている。見どころの多い見応えのある城であった。 


道 案 内
能越道の氷見北インタを降りて県道304号線の東方向に入る。県道304号線を390m程東進し稲積交差点で左折して国道160号線氷見バイパスに入り、北に1.4km程行った阿尾交差点で左折し県道18号線に入る。県道18号線を北西に2.5km程進んで行くと森寺交差点で、そこで右折して直ぐ20m程先で左折する。北方向に250m程進むと森寺公民館があり、そこの十字路で左折する。西に60m程行き変則十字路で右折し、あとは道なりに2.1km程谷間の道を行くと終点に駐車場がある。

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二ノ丸


大手口


食い違い竪堀、木戸口


堀切