能島城 No38202−06 | (のしまじょう) |
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能島の全景 | 手前の能島と鯛崎島間の潮流 |
◆ 城郭の概要 |
別 名 : |
所在地 : 今治市宮窪町(能島) |
築城年 : 応永26年(1419) |
形 式 : 水軍城 |
遺 構 : 石垣、土橋、岩礁ピット(柱穴) |
訪城日 : 平成27年9月13日 |
◆ 歴 史 |
南北朝末期の応永3年(1374_)内海海賊の伝説的英雄 村上義弘が死去し、跡目をめぐって今岡通任と信濃村上氏から出て南朝の命で下向したされる北畠師清(親房の孫と自称)が争い、師清が勝利を得て義弘の跡を継いだ。この後、村上氏は伯方島を根拠地として四方に進出し、師清の子・義顕の三人の男子は、能島・来島・因島の三家に分流し、嫡男・山城守雅房が能島村上氏を起こし、伯方城を大根城に詰め城として能島城を築いたとされる。 能島村上氏は、三家の惣領的地位を占め、これら三島村上氏は、芸予諸島に本拠を置き、官物や官人の輸送警固、難路支援、曳船活動などを行い、独自の地位を確立していった。 天文12年(1543)隆勝が没し、隆勝の嫡子・義雅が父に先立ち早世していたため、その子・義益と隆勝次男・義忠の子・武吉が叔父・隆重と組んで家督をめぐり対立、武力衝突となり、激戦が再三にわたって行われ、遂に武吉が勝利し、家督となった。武吉は、来島村上氏が伊予河野氏、因島村上氏が毛利氏に従ったが、独立自在な立場を築きあげ、能島村上氏の全盛時代を現出させ「海の大名」として、武名を轟かせた。 弘治元年(1555)毛利元就と陶晴賢の戦った厳島合戦において、武吉は毛利方に付き勝利に貢献し、また、天正4年(1576)武吉の嫡男・元吉は毛利水軍と共に石山本願寺を攻める織田信長の水軍に第1次木津川口の戦いで壊滅的な打撃を与えている。しかし、天正6年(1578)信長が命じて九鬼嘉隆に建造させた巨大鉄甲船と木津川口で再び戦ったが大敗を喫した。 天正10年(1582)中国地方に進攻する羽柴秀吉の調略に来島村上通総が降ると、毛利氏は武吉・元吉父子と浦宗勝らに来島城を攻撃させ、通総は秀吉の元へ逃れ、ここに三家体制は崩れさった。 このことで秀吉は武吉に遺恨をもったとされ、天正15年(1587)小早川の筑前転封に伴い能島村上氏は能島を退去されられ、能島城は廃城になった。慶長2年(1597)小早川隆景が死去した後、毛利氏に帰参し安芸竹原に移住、慶長5年(1600)武吉の子・元吉は関ヶ原合戦で戦死、武吉と二男の景親は周防大島(屋代島とも云う。)に移住し、慶長9年(1604)8月死去し、二男・景親と元吉の子元武が毛利家に仕えて御船手組頭役を仰せつかり、萩藩士として近世に続いた。 |
◆ 構造と感想 |
能島城は、大島と鵜島の間の狭い海峡に浮かぶ周囲約870mの能島とその南にある鯛崎島に築かれた水軍城で、瀬戸内の海賊衆・能島村上氏の本拠として有名である。島の周囲は、宮窪瀬戸の時速約18.5kmもの速さで激しく流れる潮流が渦巻き、これを天然の要害とする正真正銘の水軍城である。 |
◆ 道 案 内 |
しまなみ海道の大島北インターを下りて最初の信号交差点を左折して国道317号に入る。国道317号を北東に1.6km程行った信号交差点で右折し県道49号線に入り、南東方向に1.3km程道なりに進むと村上水軍博物館に至る。博物館の海側が船着き場でる。 |
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