甘崎城  No38202−03 (あまさきじょう)       

大三島より甘崎城を望む 干潮時に現われる石垣

城郭の概要                  
別  名 : 古城山甘崎城
所在地 : 今治市上浦町甘崎 古城島
築城年 : 天智天皇10年(671)
形  式 : 水軍城
遺  構 : 石垣、虎口、井戸跡、桟橋・逆茂木用ピット、海門跡、祭祀跡、石湯跡など
訪城日 : 平成27年9月12日、13日

歴   史
朝鮮半島の白村江での戦いに大敗した大和朝廷は、唐軍の侵攻に備えて西日本各地に古代朝鮮式山城を築いているが、甘崎城も『甘崎荒神社御由緒』によると「天智天皇10年(671)8月7日勅有りて此島(古城島)に海防城を建築し給う」と記されており、唐軍侵攻に備えた一連の城砦群の一つと見られている。
古名は「あまさきのき」で、当時の兵制の「海」または「海人」・「海士」の「あま」、「防人」または「防」の「さき」からきているものと推測されている。
中世になると能島村上氏に属した今岡氏が居城とし、今岡氏没落後は来島村上氏第4代通康、その家臣の村上吉継が城主となっいる。
関ヶ原合戦後の慶長5年(1600)に伊予半国を与えられた藤堂高虎は国分山城に入り、居城とするために今治城を築くと共に、甘崎城を支城として石垣と枡形虎口、礎石建物を有する織豊系城郭に大改修を行い、弟藤堂大輔を配した。大輔病没後も菅宇兵衛、檜垣五郎を入れたが、慶長13年(1608)藤堂高虎が伊勢津へ移封になり、甘崎城も廃城になったとされる。
しかし、元禄4年(1691)この沖を航行したドイツ人ケンペルは、帰国後に記した「日本誌」に甘崎城を「海中よりそびゆる堡壘あり」と形容しており、廃城後もその雄姿を留めていたが、江戸末期から明治の各島での水田開発の護岸工事に甘崎城の石垣石が使われ、現在は石垣基底部が残るのみである。

構造と感想
大三島の上浦甘崎の沖合200m程の所に三つの小島が連なって浮かんでいる。その一番南の最大の古城島に築かれているのが甘崎城で、芸予諸島の中央を通る鼻栗瀬戸を押さえる位置にある。
南北に細長い古城島の頂部に大きく三段に分かれた郭が連郭式に配され、北の郭が本丸で南面中央に桝形虎口が開きスロープになっている。中央部が一段低い二の丸で東面中央に大手が取り付いていた。南の郭が三の丸で北面中央に同じく虎口が開いていた。周囲は切り立った険しい岩肌で、大手道も崩れ落ちているようで、頂部へは南西隅の急崖をよじ登るしか道はない。
甘崎城の古絵図には、郭の周囲や島の周りの岩礁端に石垣が描かれているが、現在も痕跡が残っているのは、南と西の部分で、南の石垣は四段ほどが残り南東隅が算木積みになっている。西の石垣は基底石がクランク状に残るのみである。石垣の内側の岩礁には、水軍城らしく柱穴(ピット)が多く残されている。
島に渡った時は満ち潮で石垣は海の下、その影すらも見えず。翌日、干潮時に大三島より遠望すると石垣が現れており、渡れないのがなお一層残念であった。

道 案 内
しまなみ海道の大三島インターを下りて最初の信号交差点で右折し国道317号に入る。国道317号を南に870m程行くと左手に小さいな案内板があり、そこで左折し突き当たりまで行くと200m程の海上に古城島が見える。
なお、手前の川尻海岸から古城島に上陸できる観光船が運行されている。ただ、干潮時に訪れないと石垣は見られないので注意。

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本丸            本丸虎口


   岩礁ピット        対岸説明板の鳥瞰図