来島城  No38202−02 (くるしまじょう)       

Z郭の石垣と城阯碑 本丸

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 今治市波止浜字来島
築城年 : 応永26年(1419)
形  式 : 海城
遺  構 : 郭、館跡、堀跡、岩礁ピット、石垣、
訪城日 : 平成27年9月12日

歴   史
現地の縄張り図
伊予海賊の頭領村上義顕の三男・吉房が分家、独立し、来島に入島して来島村上氏を名乗り、大根城として来島城を築いたと云われている。
芸予諸島を拠点として内海に覇を唱えた村上水軍三家のうち、最も四国寄りに拠点を構えた来島村上氏は、応仁の乱に始まる主家河野氏の内紛に乗じて、伊予本土の野間郡、風早郡、越智郡日吉郷にまで勢力を伸ばした。
第4代目の通康は、河野通直に寵愛され、その嫡女を妻にめとり、天文22年(1543)には後継の指名を受けたが、これに河野家臣団が猛反発し、来島を攻める第一次来島合戦が起こり、半年に亘る攻防のすえ、分家の河野通政に河野家の家督を譲る条件で和睦した。
永禄12年(1569)河野家を来島家の元家臣であった池原牛福丸が継ぐと、来島村上氏は河野氏や能島村上氏と対立するようになり、天正10年(1582)第5代の通総は、ついに河野氏を見限り織田信長に付いたため、毛利・河野軍に来島城を攻められ、備中の羽柴秀吉の元に逃れた。
天正13年(1585)豊臣秀吉が四国征伐の軍を起こした時、通総は先鋒として伊予に攻め入り、その功により風早郡に1万4千石を与えられ、来島を去り鹿島城に入ったため、来島城その他旧領の城砦は破却となった。
慶長2年(1597)通総は慶長の役で討死し、家督は次男の長親が継ぎ、長親は慶長5年(1600)関ヶ原合戦で西軍に属して改易となるが、翌年豊後国森に1万4千石を与えられ復帰し、村上水軍三家で唯一江戸時代に大名となり、名を久留島氏と改め、明治維新まで存続している。

構造と感想
来島城は、最高時速18.5kmに達する激しい潮流が渦巻く海の難所と云われる来島海峡の西端に位置する来島に築かれた山城式海城である。
島は周囲約1km、標高42mで、海を堀とし、南北に細長い山上を三段に削平して、南から北に本丸、二の丸、三の丸を配し、東側の山腹に居館(現在は心月庵がある。)を構え、山麓の海岸には家臣団を住まわせ、さらに周囲の岩礁上に桟橋を設け、小島全体が要塞化されており、来島村上氏の大根城に相応しい造りである。
山麓の中央付近を北西に登ると石垣と城阯碑が目の前に現れる。右手に進むと堀跡と云われる大きな窪地があり、その奥が一段高く居館跡と云われ、現在は心月庵が建っている。戻って石垣の脇から上方に登ると低石垣を伴った段郭、さらに段郭を経て上方へ辿ると三の丸、二の丸、本丸へと至る。山上の各郭からは眼下に来島海峡を一望でき、航行する船の監視に適していたことが分かる。
島の北東側や西側の岩礁には桟橋を支えた柱穴(ピット)が無数に残存し、海城らしい遺構で興味をそそられる。

道 案 内
しまなみ海道の今治北インターを下りて最初の信号交差点で右折し国道317号に入る。国道317号を1.8km程行った信号交差点で右折し、90m程先で左折、さらに30m程先で右折する。北に190m程行き右折、30m程先で左折する。また北に120m程行って右折、東に80m程行った突き当たりで左折する。そこから100m程行くと石造りの燈明台があり、ここが波止浜港で燈明台の右手奥に駐車場と船乗り場がある。10分弱で来島の南東端の船着き場に着く。

 
岩礁ピット(桟橋の柱穴)

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       来島海峡を望む    波止浜港の大燈明台(江戸末期の建立)