鬼ノ城  No33208−02 (きのじょう)       

角楼・城壁・西門 城壁の高石垣

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 総社市奥坂字鬼城山
築城年 : 不明
形  式 : 古代朝鮮式山城(神籠石系山城)
遺  構 : 復元門、復元櫓、石垣、土塁、水門、石畳
訪城日 : 平成22年3月22日

歴   史
鬼ノ城は、日本書紀や続日本紀などの古文献にも記述がなく、種々の見解が発表されており、築城年代や築城者、築城目的など不明な点が多い謎の城砦である。
有力な説としては、大和朝廷が朝鮮半島の百済を救援するため天智天皇2年(663)に朝鮮半島に援軍を送ったが、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗し、唐、新羅の日本への来襲を恐れた大和朝廷が、九州から畿内にいたる西日本の要所に12城を築城したと日本書記記されており、鬼ノ城もそうした城砦の1つとするものである。
なお、大和朝廷が築いた12城の古代山城以外の城砦は、神護石式山城と云うようである。

構造と感想
鬼ノ城は、吉備高原の南端に位置する標高400mの鬼城山山頂に築かれた古代(朝鮮式_)山城である。眼下には吉備国府跡や吉備の津を望み、さらに児島半島や四国の山並みを遠望できる要衝地に立地していた。
構造は、山頂周辺に約2.8kmにわたって高さ5、6mの城壁を巡らせ、城域を区画している。しかし、城内は30haに及ぶ広大さで、緩やかな起伏を伴う自然地形をそのまま利用したと思われ、城庫とみられる礎石建物跡が6、7ケ所から発見されている。
城壁は、巾が約7mもあり、高石垣と版築土塁が交った築かれ方で、その東西南北の四ヶ所に城門があり、発掘調査の結果、通路には敷石が敷かれ、12本の柱が支えた楼門であったと推測されている。西門の西側近くには、角楼と呼ばれる防御施設も構えられていた。
城壁の天端と裾には、水捌けを良くし城壁を守るために平たい石が1.5m幅で敷かれ、さらに谷部の六ヶ所に下半部が石垣、上部が土塁で築かれた城壁を貫く水門が設けられ、城内の雨水を集め排水するようにしていた。
高石垣や版築土塁、水門、石敷、復元城門などを見ていると、古代の高度な土木技術力に驚かざるを得ません。版築土塁は、どれだけの時を経て今日に残存しているのか、想像すると驚愕です。

道 案 内
岡山道の岡山総社インターを下りて国道180号の西方向に入る。1.5km程西進した県立大学交差点で左手の総社・一宮バイパスに入り、さらに540m程西進した信号交差点で右折する。県道192号線に入り1.3km程北上し、県道271号線に突き当たり左折する。県道271号線を西に320m程行った十字路で右折し、道なりに1.8km程行くと「砂川公園」の西端で道が二手に分かれるので、右手へ進む。そのまま道なりに2km程上って行くと、道路左手に経山城の案内があり、ここが登山口である。登城口付近に駐車スペースがある。あとは道案内に従い15分も登れば城跡に至る。岡山道の岡山総社インターを下りて国道180号の西方向に入る。1.5km程西進した県立大学交差点で左手の総社・一宮バイパスに入り、さらに540m程西進した信号交差点で右折する。県道192号線に入り1.3km程北上し、県道271号線に突き当たり左折する。県道271号線を西に320m程行った十字路で右折し、道なりに1.8km程行くと「砂川公園」の西端で道が二手に分かれるので、右手へ進む。そのまま道なりに3km程上って行くと鬼ノ城駐車場で、あとは道案内に従い10分も歩けば城跡に至る。

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城壁の石垣と版築土塁      復元西門内     

 
 復元角楼        城壁上の石敷と板塀

 
 第二水門           第一水門  

 
 第〇水門        第一水門の石垣