要害山城  No30401−01 (ようがいやまじょう)       

三之郭東側の堀切 主郭西方向

城郭の概要                  
別  名 : 馬谷城
所在地 : 西牟婁(にしむろ)郡白浜町高瀬
築城年 : 明応3(1494)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、横堀、竪堀、虎口、石段、
訪城日 : 平成28年5月16日

歴   史

明応3年(1494)安宅荘の安宅氏が家臣の吉田春秀に旧生馬村を与えて、築かせた城が要害山城で、馬谷城とも云われる。
安宅氏は、隣接する山本氏と絶えず富田付近で争いを繰り広げており、明応3年龍松山城を本拠とする山本主膳守は要害山城に出兵し、後世「馬谷城合戦」と呼ばれる戦いを展開した。
なお、現状の遺構から天正13年(1585)の羽柴秀吉の紀州攻めの際、山本氏は秀吉に抵抗し、安宅氏は恭順しており、これが両者の確執を生み、安宅氏に境目の城として要害山城を改修させたと考えられている。


構造と感想

要害山城は、熊野街道の白浜町高瀬から安居辻松峠に至る富田坂の登り口を見下す東から西方に突き出した山稜の標高90mの先端部に築かれており、東の尾根続きを除く三方は急峻な要害地形である。
主郭は、先端の頂部に配し、東西28m、南北12mのたまご形をしている。主郭の西下には、東西8m、南北25mの半月状を呈した二之郭が付帯し、高さ約1.5mの土塁が東を除く三方を囲繞しており、北西隅には平入り虎口が開く。また、北東隅には土塁に上がる石段が設けられている。そして西側から東側の山腹には畝状竪堀群があり、西側には横堀から6本の竪堀が落ち、横堀の土塁は竪堀で分断されコブコブに起伏している。北西側には三本の竪堀が落ち、東側は横堀の両端から竪堀が落ちている。山腹はややシダが茂り、遺構の確認がしずらいが、この西先端部が当城の最大の見所である。
主郭の東下には東西12m、南北13m三之郭を構え、その直下は大堀切で尾根を遮断し、さらにその先にも二本の堀切や南斜面に三本の竪堀を穿ち、尾根続きを厳重に遮断している。


道 案 内
<登り口>
紀勢道の南紀白浜インターを降りて、最初の信号交差点で左折し国道42号に入る。国道42号を南に1.1km程行くと「一目坂トンネル」に至る。トンネルを出て120m程先で右折する。西に道なりに430m程行くと山裾の突き当たりのT字路に至る。T字路で左折し道なりに410m程行くと右手に小屋があり、その少し先に城の説明板がある。そこが登城口で山道を10分も登れば城跡に至る。
 

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二之郭北方向         二之郭の西側土塁

 
   二之郭の虎口        西側山腹の横堀と畝状竪堀

 
西側山腹の畝状竪堀             東側の尾根

 
三之郭北方向           三の郭東側の坂土塁