広城  No30362−01 (ひろじょう)       

二の丸の石垣 東の丸の横堀折れ

城郭の概要                  
別  名 : 高城、名島城
所在地 : 有田郡広川町名島
築城年 : 応永8年(1401)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、空堀、堀切、竪堀、石垣、虎口、
訪城日 : 平成28年5月14日

歴   史

応永6年(1399)の応永の乱後、足利義満の功臣畠山基国が紀伊の守護職に任ぜられ、大野城(海南市)に入ったが、まもなく二男満則に城を守らせ、自身は応永8年(1401)有田郡広川町名島に城を築き移った。これが広城である。居城を有田地方に移したのは、南朝方に忠節を尽くしていた湯浅氏や楠木氏の残党を見張るためだと云われている。
しかし、畠山氏が守護職についたものの同族内の争いが絶えず、本拠の河内国さえ安定しておらず、紀伊でも地方豪族が勢力を誇っており、広城も基国から数えて五代目となる尚順が城主であった大永2年(1522)或いは天文3年(1534)ともされるが、紀南の平須賀城主・野辺氏と日高の旗頭亀山城主の湯浅氏の連合軍に攻められ落城している。この際、本丸落城後も東の丸で、額田勘三郎が戦ったと云われるが、河内からの援軍もなく、結局は落城し、以後は湯川氏の持ち城となった。


構造と感想

広城は、湯浅氏の湯浅城を北方に見下す標高135.7mの高城山に築かれている。高城山の頂部に本丸を置き、東側に延びる尾根の次のピークに東の丸を配した一城別郭の構造である。
現在、本丸部は果樹園として造成され、郭の輪郭がかろうじて残る程度で改変が著しい。東の丸は開墾の手が入っておらず、雑木林の中によく遺構が残っている。
高城山の山頂は十字形をしており、頂部の天守台と呼ばれる郭の四方に張り出した1、2段の郭を付帯させ、北西・北・東の端部に空堀を入れ区画する単純な構造である。東側の空堀から100m程の平坦地(馬場か?)が続き小ピークとなり、このピークに東の丸が築かれている。
東の丸は中央付近にクランク状に屈折する空堀が入り、東西二郭に分かれている。空堀の両端は竪堀となって山腹へ下っている。
西側が二の丸で東半分が一段高い二段築整となっていて、西側から南側下に腰郭が付帯し、土塁が巡り、南西隅に虎口が開く。
空堀の東側が三の丸で南側の一部を除き土塁に囲まれ、東側は分厚い土壇になっている。その東下で二重の大堀切により厳重に遮断している。
東の丸は、本丸に比べ複雑な構造をしており、高度な技術水準にある。


道 案 内
コンテナの向こう側が林道入口
湯浅御坊道路の湯浅インターを降りたT字交差点を左折する。西に向かって1.5km程行くと国道42号との別所北交差点に至る。そこで左折し国道42号を南に480m程行き広川を渡る手前で左折し川沿いの道に入る。150m先のY字路で左手の山沿いの道へと進む。山沿いを460m程行くと十字路があり、左手に果樹園用の林道が山頂まで続いている。終点の右手ピークが東の丸跡である。東の丸を囲う獣除けフェンスがあり、その南側中央付近に扉があり、それを入って直登する。
なお、林道は非常に狭く十字路の先の道路余白に駐車し、歩いて登るのが良い。

TOPへ 戻る

 
東の丸の横堀折れ       横堀からの竪堀

 
二の丸上段の虎口        腰郭の虎口

 
腰郭の土塁        三の丸の土塁

 
    三の丸郭内        三の丸東側の土塁と窪地

 
東端の堀切         西からの遠景