長谷高山城  No28501−03 (はせこういやまじょう)       

主郭南方向 尾根間谷部の石垣

城郭の概要                  
別  名 : 鴻の山城、尼ケ城
所在地 : 佐用郡佐用町横坂
築城年 : 鎌倉時代
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、石垣、空堀、堀切、土橋、
訪城日 : 平成25年3月22日

歴   史
建久2年(1191)村上源氏庶流の山田則景が鎌倉の源頼朝から佐用荘地頭への補任を受け播磨守となり、建久8年(1197)に隠居して太郎入道と号し、隠居先として築いたのが長谷高山城である。
山田則景の末子・家範はこの城で生まれ、後に作用荘南端の赤松村に移り住み「赤松」姓を名乗った。この地は、播磨最大の勢力を有した赤松氏発祥の地と云われ、則景・将則・光広と3代続いた。
なお、別称で尼ヶ城と云われるのは、天正5年(1577)の羽柴秀吉の毛利征伐で、先陣を賜った尼子勝久がこの城に拠った事から付いたとされる。
 
 鐘搗堂と堀切・土橋          鐘搗堂背後の二重堀切

構造と感想
長谷高山城は、佐用インターの東に聳える高山山頂の南西手前標高250m付近に築かれている。城跡へは登山道が整備され、雑木も切り払われ、下草も刈り払われており、遺構の確認が容易な訪れ易い城跡である。
登城口から遊歩道を5分も登れば、見張り台の鐘搗堂に着く。堀切に架かる土橋を渡り先端部に出ると見張り台だけあって眺めがよい。さらに長い尾根筋を登って行き、山頂近くなると段郭群の先端の切岸が現われる。綺麗に削平された七段の郭を見ながら山頂へ向かうと主郭である。
主郭は方形と云うより円形に近く、東背後に工事途中のような堀切やその東側に平坦地が続いている。
主郭の北西尾根に東面に土塁を伴う高所郭を中心に梯郭式状の三段の郭があり、「千畳敷」と呼ばれているようだ。その西から南面に掛け高さ1m程の石垣が所々に残っている。
長谷高山城の各々の郭は、綺麗に削平され、広さもあり、山上を中心とする城域も広いが、切岸も低く、竪堀や土塁などの防御施設も見られず、防御性に乏しい開放的な城跡に思える。

道 案 内
中国自動車道の佐用インターを下りて佐用インター交差点を右折し国道373号に入る。そのまま340m程南進して高架下を潜った直ぐを左折して県道547号線に入る。東に100m程行った1本目の路地へ左折し、再び高架を潜れば登山遊歩道のスタート地点である「ふれあいの里」駐車場に至る。そこから左手の斜面の遊歩道を登り、尾根に出て右手に行けば山頂の主郭まで30分弱で到達できる。

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