中道子山城  No28210−01 (ちゅうどうしさんじょう)       

本丸南東方向 北西端の堀切

城郭の概要                  
別  名 : 城山、中道子城
所在地 : 加古川市志方町岡字城山
築城年 : 室町時代初期
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、門跡、虎口、井戸、
訪城日 : 平成26年4月13日

歴   史
室町時代初期、赤松氏則が築城、あるいは孝橋新五郎繁広(赤松則祐の孫満政の三男満直で、孝橋則繁の養子)が築いたとも云われる。
嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で赤松氏宗家は滅び、山名氏が播磨守護となるが、長禄2年(1458)赤松政則が赤松家を再興し、孝橋繁広の子繁景が中道子山城に復帰している。
明応5年(1496)繁景が没し政頼が後を継いだが、この頃には内紛や下剋上の風潮が強くなり、赤松氏家中でも執権浦上宗則に実権を握られ、孝橋氏は赤松氏に従って浦上氏と度々戦ったようである。
享禄3年(1530)政頼の子秀光の時、幕府管領家細川氏の内紛に加わり、浦上村宗を倒したが、天文7年(1538)因幡を勢力下においた出雲の戦国大名尼子晴久が播磨に侵攻し、秀光は尼子軍とも戦った。尼子氏は衰退し二年程で撤退していったが、続いて摂津から三好長慶が播磨へ勢力を伸ばし、天文18年(1549)6月三好長慶が細川晴元を摂津三宅城に攻めたとき、秀光は晴元に属して戦死した。その子新五郎秀時は、弘治2年(1555)の春、三好勢の攻撃を受けて佐用郡上月西ノ庄の浅瀬山城に退き、天正年間(1573〜92)には羽柴秀吉の攻撃を受けて落城したと伝えられている。
なお、城跡は中世から近世へと移り変わる過渡期の姿を好く残していると云われる。

構造と感想
中道子山城は、加古川から加西へ通じる北條街道沿いの細工所集落から東1.5kmの標高271.6mの城山山頂に築かれている。山頂からは、加古川市・明石市・三木市や淡路島を眺望でき、現在は城山公園とされている。城跡へは、舗装された山道(山麓で閉め切られている。)が7合目まであり、その先は遊歩道となっている。
城の構造は、山頂部北東側に主郭を置き、西側の米倉、太子堂を隔て南東方向と北西方向に延びる尾根筋に二ノ丸、三ノ丸を配している。
主郭は、およそ70m×30mと広大で北側に低い土塁が巡らされ、「赤松城址」の大きな石碑が建てられている。主郭の南西面に平入り虎口が開き、その続きに三方を土塁で区画された方形の伝米倉跡が付帯し、城道が米倉の中の南東部を抜けている。これは馬出しのように思えるが、本当に米倉であったのだろうか?
米倉の南西側が太子堂の建つ郭で、南西面に空堀のような窪地が見られる。その南西側頂部に北西面を除き帯郭が巡る城内二番目に広い郭が配されている。この頂部から南東に延びる尾根に二の丸の二段の郭が連なり、下段北西隅に四足門を構えた大手門を設け、上段の裾を東に回り込み北東隅の櫓門虎口を抜け、帯郭の南東裾を登り、太子堂郭と帯郭の境の櫓門虎口に至り、本丸部へと入る。見事に上方より横矢を効かせた城道設定となっている。また、各虎口は石積みで補強されており、堅固な城門であったと思われる。
本丸部から北西に延びる尾根には、三段の郭を連ねた三の丸を築き、二段目の北東面を下り三段目の南東隅の外側で搦手虎口となる。その先は二重の堀切で遮断されている。
本丸部と三の丸の間の谷部、太子堂の北下方に井戸郭が設けられ、土塁で堰止め、石組井戸を掘っている。

道 案 内

山陽道の加古川北インターを下りて右折し県道43号線に入る。県道43号線を南に1.5km程行った志方東小学校東交差点に道標が出ている。その交差点を左折して東へ道なりに680m程進むと登山道入口の石碑がある。そこを右折して110m程で山裾の駐車場に至る。そこから舗装された道が付いているが一般車両は通行禁止である。途中の毘沙門岩から山道(旧道)を上り、帰りは舗装道路を下りるのが楽なように思う。


城跡  登り口     TOPへ  戻る


本丸虎口と米倉

搦手虎口