感状山城  No28208−01 (かんじょうざんじょう)       

本丸 大手門跡

城郭の概要                  
<物見岩>
別  名 : 瓜生城、下原山城
所在地 : 相生市矢野町瓜生、森
築城年 : 鎌倉時代
形  式 : 山城
遺  構 : 石垣、虎口、井戸、
訪城日 : 平成21年6月21日

歴   史
感状山城が築かれたれた時代は、『播磨古城記』、『岡城記』などによると、鎌倉時代(1192〜1333)に瓜生左衛門尉が築いたとする説と、建武3年(1336)赤松円心の三男赤松則祐が築いたとする説がある。
元弘2年・正慶元年(1332年)鎌倉幕府の倒幕計画が発覚して隠岐島に配流されていた後醍醐天皇は、翌年に隠岐を脱出、名和長年に船上山に迎えられ倒幕の兵を挙げた。後醍醐天皇の挙兵に呼応して、東国の足利高氏や新田義貞等によって鎌倉幕府を倒した後醍醐は赤松氏や楠木氏に迎えられて京へ帰還した。
元号を建武元年と改め、天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとするが、建武2年(1335)東国の乱鎮圧のため出陣した足利尊氏は、鎌倉にとどまり親政から離反した。これに対し後醍醐天皇は新田義貞に尊良親王を奉じさせて尊氏討伐を命じ、東海道を鎌倉へ向かわせたが、箱根・竹ノ下の戦いで新田義貞は敗れ、建武3年(1336)正月に尊氏は入京を果した。
しかし、奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢の前に尊氏は京を追われ、これを追撃する新田義貞の大軍が播磨へ侵攻し、尊氏を支援する赤松円心は白旗城に三男・則祐は感状山城に籠もって奮戦し、新田軍を50余日にわたり足止めをしたことで、尊氏は無事九州へ落ち延び、その後西国の武士を組織し、湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り再び京を制圧した。こうした則祐の功績に尊氏が感状を与えたことから、則祐の居城を感状山城と呼ぶようになったとされている。
その後、則祐は白旗城へ移り、感状山城は赤松氏の番城となり、森上総や岡豊前が守将に充てられ、後年には赤松義村の居城ともなった。
現在に残る遺構は総石垣造りであり、石垣の積み方が近世以前の手法であることから、戦国時代のころのものと推定され、同時期に一帯を支配した宇喜多(浮田)氏により改築されたと考えられている。

構造と感想

感状山城は、「羅漢の里」の東側、標高301mの感状山の尾根上に築かれている。現在は国指定史跡となり、羅漢の里から遊歩道が整備されている。九十九折れの遊歩道を20分程登ると尾根筋に出、左手の北方向に尾根筋を進むと物見岩を経て三の曲輪群に至る。
構造は、山頂部と南西下の山腹部からなっている。山頂北端に本丸と西方へ三段の郭が連なる北郭群、本丸の南方に二の丸、南郭群が連なる。東西面には多数の石垣が残っているが、高石垣と云える程ではない。南郭群の南端には人一人が通れる石段を伴った虎口がある。
南西山腹部の遺構は、北から南に出郭、倉庫群、南端に物見岩と呼ばれる岩がある。山腹部の郭にも低い石垣が点在している。南東下方には大手門跡があり、石垣造りの虎口、その内に井戸が残っている。出郭の北下方には搦手門跡があり、また石垣造りである。
郭面には建物の礎石が点在しており、発掘調査からも本丸には御殿が建てられ、二の丸には隅櫓と書院風の常御殿が建っていたことが明らかにされている。
山腹部の郭は広い面積をしており、土蔵跡や大甕九個が検出されている。
なお、本丸からの眺望が素晴らしいようですが、訪れた日は雨模様で靄がかかり残念でした。

 
南郭群の石垣      南郭群の虎口

道 案 内
県道5号と県道44号が交差する真広交差点から県道44号を360m北上したY字路で左手に進む。Y字路から940m北上したT字路で左折し、瓜生の集落ないを880m程進むと「羅漢の里」で、最初のお店を越えたY字路を右手へ入り、その140m程先の右手に遊歩道がある。登城口に駐車場が完備されている。

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