須知城  No26407−03 (しゅうちじょう)       

二郭の石塁 二郭の虎口

城郭の概要                  
別  名 : 市森城
所在地 : 船井郡京丹波町市森
築城年 : 南北朝期
形  式 : 山城
遺  構 : 石垣、土塁、竪堀、堀切、
訪城日 : 平成21年9月27日

歴   史
主郭の高石垣
須知城は、南北朝時代に須知景光によって築かれたと伝えられる。
須知氏は、遠州周智郡に住していた須知景基が源六条判官為義に従い丹州舟井郡追分村に移って来た土豪である。元弘争乱の際には六波羅探題に反旗を翻した足利尊氏の元に参集しており『太平記』に丹波の土豪として「志宇知」の名で記載されている。
須知城の初見は、『遠山家文書』で北朝方から南朝方へ寝返ったことにより「観応3年(1352)5月15日に丹波守護代荻野朝忠に属した中津川(遠山)小次郎秀家らの軍勢に攻められ落城した。」と記されている。
延徳元年(1489)、丹波守護代・上原元秀による荘園・寺社領の搾取、横領に対し、国人一揆が蜂起した(位田の乱)。この一揆に加わった国人衆には、位田、萩野、大槻、久下氏と共に須知氏の名も見え、この頃は有力国人として復興していたようである。
天正3年(1575)織田信長の命による明智光秀の丹波攻略が始まると須知元秀は明智方に与したが、元秀が八木城攻めに負った傷がもとで死去すると、天正7年(1579)須知城は光秀に攻められ落城したと伝わっている。その後、須知城は光秀によって石垣を多用した城に改修されている。

構造と感想  
 (主郭の高石垣)
須知城は、名勝の琴滝に通ずる明智光秀が再興した玉雲寺の東向かいの山上に所在している。
構造は、山頂部に郭を一列に配置する連郭式の山城であるが、堀切を挟んで東西で城の形態が異なっている。東城は形態が古く須知氏の城跡とされ、西城は石垣が多用され、明智光秀が改築した城跡とされる。
中央頂部に主郭が置かれ、東面に高石垣が当時の姿を留めており、その隅部の積み方は古い城塁築造手法で、祖形としての価値が高いとされる。さらに、主郭南西隅の虎口には桝形の原形、また、二郭南西隅の虎口には櫓台の石組、二郭と西郭間の石塁、二郭と主郭間の石塁などが見られる。一段下がった西端の郭は、広い郭でよく削平されており、高見山真礼寺跡との記録が残っている。
やはりこの城の見所は、主郭の高石垣と随所に見られる石垣で、明智光秀の力を感じる遺構である。

道 案 内
玉雲寺の東北東約500mに位置している。京都縦貫自動車道丹波インターで下り、丹波IC交差点で左折し国道9号に入る。国道9号を南に990m程行って戻るように左折する。案内に従い玉雲寺まで行き、寺から北東側山裾の小道に入って250m程山裾を北上して右手斜面を登る山道があり登城口である。斜面を登り尾根筋に出たら右に尾根筋を辿れば城跡に至る。

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