三之宮城  No26407−01 (さんのみやじょう)       

現地の縄張図 西端の堀切

城郭の概要                  
(主郭)
別  名 : 三ノ宮城、三ノ宮西城、
所在地 : 船井郡京丹波町三ノ宮縄手
築城年 :
形  式 :山城
遺  構 :堀切(横・竪)、曲輪跡4箇所、井戸
訪城日 : 平成21年9月26日    

歴   史
三之宮城は、土佐一国の領主となる山内一豊の先祖の地と云われる。一豊は尾張に生まれ、岩倉織田家の家老であった父盛豊が織田信長に攻められ戦死したのち流浪、後に織田信長、豊臣秀吉に仕え山内家を再興し関ヶ原の戦いで徳川家康に属し遠江国掛川六万石から土佐二十四万石の国主に抜擢され慶長8年(1603)高知城を築き初代土佐藩主となっている。
その一豊から数えて十三代前の宗俊の次男家俊が兄時俊との間に争いが起こり、ここ丹波国三宮(京丹波町三ノ宮)に備後国地毘荘(広島県庄原市)より移り住み、土佐山内家を興したと伝えられている。その後、一豊の祖父久豊までの間は詳細は不明である。
『丹波志』や『西北紀行』等によれば、一豊の先祖は足利将軍家に仕え、一豊の祖父久豊は政争に敗れた将軍義晴とともに流浪、ついには尾張に流れて岩倉織田家に仕え家老になった。久豊の去った丹波三ノ宮には一族の山内和泉守が残り、和泉守が病没したのち子孫は三ノ宮において帰農したとされる。

構造と感想
三之宮城は、旧三宮小学校(廃校)の背後にある標高280メートルの山城である。
構造は、山上の主郭を中心に南東の京都方面に伸びる尾根に二段の腰郭を付帯させ、南東部で竪堀と堀切をいれて尾根筋と斜面を遮断している。主郭の西下方に両側サイドに竪堀が落ち防備された大きな井戸跡が残っている。北西尾根には堀切が穿たれ、北西面はそのまま山腹に竪堀として落ちているが、南東面は国道173号が通され削り取られ変貌している。
主郭の東側にも小さな段郭があり、ここから南東の腰郭に下り、下段腰郭の西面中央付近から井戸跡横を通り下ったと思われる。
夕暮れ時に訪れたため、山中に入ると既に薄暗かったが、明瞭な遺構を楽しむことが出来た。しかし、井戸跡とされる大穴は到底井戸とは思えない空洞であった。

道 案 内
 (井戸跡)
国道173号を北進し丹波綾部道路を越えた三宮交差点から300m程先の左手に「山内一豊ゆかりの城-三之宮城跡」という大きな看板あらわれる。そこが城跡である。
     

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