No25526−01 五十川城 (いかがわじょう)       

南側の段郭 土塁と東側郭

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 新旭町饗庭(五十川)
築城年 :
形  式 : 平山城
遺  構 : 土塁、堀切、
訪城日 : 平成24年12月23日

歴   史
五十川城を吉武氏の居城とし、吉武城を出城とする伝承がある。
『高島郡誌』は、吉武壱岐守について「五十川村城に居る出自詳らかならず。或云美濃の土岐氏の庶流なり、江州に来て山門の代官となり、饗庭弥太郎と号す。其家分れて三となり、長子は西林坊と号し日爪村に居り、次子は定林坊を号し霜降村に居り、季子壱岐守は五十川村の吉武城に居れり」と記し、また、永禄9年(1566)高島郡への影響力を強める浅井長政は、善積庄、河上庄、木津庄・保坂関の取り分一部を西林坊、定林坊、宝光坊(饗庭三坊)にあてがっており、戦国時代末には「饗庭三坊」が有力土豪へと台頭していることが窺える。
続いて『郡誌』は「元亀二年(1572)信長山門を伐し時 三家共浪人す」と記している。その後の吉武壱岐守については、天正10年(1582)加賀鳥越城の城主として、また、慶長3年(1598)には越後村上城城主の村上氏の筆頭家老としてその名が見える。

構造と感想
五十川城のある山丘は、平野の中の独立した丘陵であり、宅地造成や道路、水道配水池の建設で大きな改変を受けているため、郭の配置や形状を把握するのは困難な状態になっている。
しかし、配水池へ登る階段の脇に数段の細い段築や配水池の南側へ回ると頂部中央に南北方向の土塁が約30m程残り、周りに削平地が見られる。その周囲の斜面を幾段にも刻み込んだ構築で、地形に応じた自然な縄張りであることが見てとれる。
なお、北側の道路を挟んだ下方にも土塁や堀切と思われる地形が見られる。

道 案 内
国道161号と県道558号線の饗庭交差点で県道558号の南方向に入る。1.8km程行った十字路で右折し、西に160m程行ったT字路で右折する。北に110m程入るとY字路があり右手の山道へと進む。220m程山道の悪路(途中でダート道となり、Uターンも厳しい道幅)を行くと左手に水道施設への階段がある。

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