No25525−05 伊黒城 (いぐろじょう)       

舌状尾根の先端方向 西面の土塁

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 高島町高島
築城年 :
形  式 : 平山城
遺  構 : 土塁、櫓台、切岸、石垣、
訪城日 : 平成24年12月2日

歴   史
日吉神社の土塁

大谷川沿いの切岸
『伊黒村條目帳』は、応永26年(1419)延暦寺が伊黒一帯を支配する城主・浅賀左近尉を滅ぼし下司領にしたと記し、現集落の大谷川に架かる橋を「浅賀谷橋」と云い、これらから15世紀初めまで在地の土豪(浅賀氏)が居館を構えていたと推測されている。また、明応年間(1492〜1501)には、延暦寺の下司・林右京亮が当城西隣りの日吉神社を創建したと記しており、16世紀までの城主として浅賀、林が確認されている。
永禄年間(1558〜69)には城主として法泉坊の名が現れ、『高島郡誌』には「伊黒城跡、法泉坊新庄俊長の城跡。浅井に属し、伊黒及び以南を領す。天正年中(1573〜92)信長に降参し、浅井の為に滅ぼされる。」、また、『近江国與地志略』には「伊黒法泉坊と号し、山徒にして領主なり、浅井に属し、信長の為に滅ばさる。」とある。伊黒法泉坊の文献上の初見は『浅井三代記』の永正15年(1518)とされ、16世紀初めに伊黒城主が林から法泉坊に変わったと考えられている。
さらに『高島郡誌』は、「或は言う。伊黒城は打下城・林与次左衛門が出城なり」と記し、伊黒城の城主名が林右京亮であり、打下城主・林氏の一族で、伊黒城は出城の可能性が高く、それを新旭の土豪・法泉坊が奪取したようである。そして、信長に降伏したため、天正元年(1573)浅井氏によって滅ぼされた。磯野員昌が新庄城に入る天正3年(1575)には、打下城・林与次左衛門も信長に殺されており、伊黒城も天正元年または同3年に廃城になったと思われる。

構造と感想

伊黒城は、高島集落の南背後、標高150〜160mの丘陵上にあり、朽木の村井から畑村・鹿ヶ瀬を通り勝野(高島)に出る横谷越 と 朽木の市場から鴨川沿いに勝野に出る入部谷越が合流する地点に位置し、朽木・葛川方面から西近江路に至る要衝に構えられていた。
城が築かれた舌状の台地は、南面山裾部が約250m、北東面と北西面が約100mの三角形を呈し、南面以外の二面は約5mの切岸に囲まれ、集落を眺望する絶好の高台である。先端は最も高い切岸に囲まれ、北西面は堀の役割を果たす大谷川を挟んで西方に備える砦があったとされる日吉神社に面している。先端の西側に薮地が存し、土塁と櫓台と思われる痕跡が認めれれる。北東面の中程には「とのさか」と呼ばれる坂道があり、坂の東側が削平されている。南面山裾部の薮の中には多数の削平地あり、石垣や土塁が見られたようである。
また、台地の周囲に広がる集落の端部は段差約10mの切岸となって、その東端部の削平地のある字名を「じょうがいと」と呼び、居館跡と云われている。
伊黒城は、集落とその背後の台地から成り、集落全体が一つの城跡と推測されているが、台地上は農耕地化され改変が進み、居館跡も小学校が置かれ、城跡を決定づける遺構、痕跡は見られない。


道 案 内
国道161号高島バイパスの国道勝野交差点を西方向に県道296号線に入る。県道296号線を4.8km程西進し高島集落を越えて大谷川を渡った直ぐを左折する。大谷川沿いを250m程入ると日吉神社に突き当たる。日吉神社の東側の川を渡った向いの台地が伊黒城跡とである。

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