No25525-04 長法寺城 (ちょうほうじじょう)       

喰い違い虎口 北側の堀切

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 高島町鵜川字長法寺
築城年 :
形  式 : 山城(標高370m)
遺  構 : 堀切、土塁、虎口、
訪城日 : 平成25年5月18日

歴   史
平安時代に開基された「高島七カ寺」と呼ばれる天台宗の有力寺院の筆頭であった長法寺の東側尾根上に寺坊を改変して築かれたのが、長法寺城である。しかし、築城時期など詳細は不明である。
なお、寺院としての長法寺の創建や廃絶した年代も不明であるが、開基は、慈覚大師円仁と伝えられ、また、嘉祥2年(849)に長法寺の鎮護の神として坂本(現在の大津市坂本)から山王権現を勧請して創建されたと伝わる。確実な史料としては、弘安3年(1280)の裏書をもつ荘園絵図である『近江国比良庄絵図』に、滋賀郡と高島郡の郡境に一堂が描かれ、長法寺の名が記されていることや、永享4年(1432)に長法寺の方丈職を延暦寺の円明坊兼宗がつとめていたことが残っている。さらに、文明3年(1471)11月の寺坊の売券に「長法寺大品坊」とあるのが、長法寺の最後の記録とされる。伝承では、元亀3年(1572)の織田信長の焼き討ちにより灰燼に帰し、廃絶に至ったと伝えられている。
この寺院跡は、廃絶した後、ほとんど人の手が入らない状態となり、『近江輿地志略』などに「長法寺跡」としてわずかに記載があるだけで、詳しい所在などもほとんどわからないままであったが、昭和31年(1956)に滋賀県立高島高等学校歴史研究部によって再発見され、中世の山岳寺院遺跡として知られるようになった。

  
仕切りの土塁         参道の石垣

構造と感想
長法寺跡は比良山地が琵琶湖に最も近ずく高島市鵜川の標高370mの長寶(宝)寺山と呼ばれる丘陵上にあり、南と西に眺望が開けている。
遺跡は、標高約370〜320mの北から南に伸びる尾根から谷に広がっており、東西約250m×南北約250mにおよんでいる。
お寺の中心となる遺構は、谷筋から西斜面に集中し、最奥部の本堂跡から谷筋に参道とみられる直線道路が4本通り、両脇には石垣や石塁、段差によって区画された平坦地が碁盤目状に並んでいる。この道路沿いには出入口と考えられる石垣の切れ目もある。また、谷の南端には鐘楼跡と呼ばれる小丘がある。さらに、これらの寺坊跡とみられる平坦地には、現在も湧水のある小さな池や池の中央の中島に景石が立つ庭園跡が残っており、僧侶達の暮らしぶりが偲ばれる。
谷の東側の尾根上が坊の区画を造り替えて城郭にしたと考えられている長法寺城跡で、北から南に4つの平坦地が並び、北端の郭が一段高く、その下が堀切になっている。その南に段差と土塁で区画されたほぼ同じ高さの3つの郭が連郭式に続き、南端の郭に南側に開く喰い違い虎口が設けられている。
寺院跡の累々たる石垣に対し、城は土づくりで石垣は見られないのが、不思議である。しかし、何と言ってもこの遺構のみどころは、石垣を多用した寺坊群である。

道 案 内
国道161号を北進し白髭神社を過ぎ1.4km程走ると国道161号と高島町市街地に入る道(旧国道)に分岐する。分岐を左斜めの市街地方面に入り、道なりに1.4km程走行すると近江高島駅口交差点に出る。交差点を左折してJR湖西線ガードを通り抜け、180m程先の十字路で左折する。道なりに390m程行くとJR湖西線ガードで、その手前で右折し高架沿いに260m程南進する。橋を渡って直ぐに右折し、川沿いの道を西に260m程突き当たりの堰堤まで上がって行く。堰堤の左手前に4、5台とまる空き地がある。左手の登山道を案内板に従い50分程登ると城跡である。

なお、打下城に行く分岐となる尾根上に出たところを打下城とは逆の右方向に「馬の足跡」、「下の鼻打」と登って行き、そこから南に下って行くと鉄塔のある平坦地に出る。鉄塔奥の谷が長法寺跡である。

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