No25525−01 永田城 (ながたじょう)       

北よりの全景 北東角の土塁

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 高島町永田
築城年 : 鎌倉期
形  式 : 平城
遺  構 : 土塁、堀跡
訪城日 : 平成22年3月8日

歴   史
永田城は、西佐々木一族である永田氏代々の居城である。
西佐々木一族は、嘉禎元年(1235)近江守護・佐々木信綱の二男 高信が高島郡田中郷の地頭職を得て、その一族が高島越中氏、平井氏、朽木氏、永田氏、横山氏、田中氏、山崎氏(愛智氏系)の家々に分かれ、鎌倉時代から戦国末期にかけて高島郡南部を支配した。
永田氏は西佐々木一族の祖である高島高信の三男 胤信が永田に移り住んだのに始まるとされる。
『淡海温故録』によると、永田氏は高島氏の庶流で応仁・文明の頃(1467〜87)に東近江に勢力をもち六角氏の旗頭を勤めたとしている。
『近江與地志略』には、元亀元年(1570)の織田と浅井・朝倉が戦った志賀の陣における坂本合戦で、永田左馬助(あるいは右近衛門秀宗)が浅井・朝倉軍の先鋒となり信長に討たれ、永田氏は滅んだと記されているが、その後の永田城については不明である。

構造と感想
『永田村地誌』に永田定弘・景弘・堅弘三郎の寺堡塞址の伝聞があるが詳細は不明としている。また、『高島郡誌』では、字城出にあって宅地となっているが、面積約1,200坪で堀の址は田になっているとしている。
現状は、永田集落内の長盛寺周辺が字城出で、その北側が「テラカヤブ」と呼ばれ、竹薮の南・北・東を土塁が取り巻く約40m×25mの長方形の一画があり、永田城の一部と考えられているが、全貌は不明とされる。。
なお、土塁は、建物の二階部分に掛かる高さがあり、分厚く大きな規模のものである。

道 案 内
国道161号高島バイパスの国道勝野交差点を西方向に県道296号線に入る。1.2km程西進した音羽交差点で右折し、240m程北進して和田打川を渡る。その130m程先の十字路で右折し、集落に入らずバイパスを270m程走ると右手に竹薮が見える。その竹薮が城跡である。

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