No25524−07 太山寺城 (たいさんじじょう)       

基壇跡か 三・四段間の堀切

城郭の概要                  
クランク状石積み
別  名 :
所在地 : 高島町武曽横山
築城年 : 室町期
形  式 : 山城(標高320m)
遺  構 : 土塁、土橋、堀切、竪堀、石垣、礎石、
訪城日 : 平成22年12月8日    

歴   史
太山寺城に関する文献や伝承が残っていないことから、遺構や遺物を基に考察がなされている。
この一帯には「御屋敷」「寺屋敷」の地名が残っており、小字「阿弥陀山」に属し天台宗寺院の立地条件の特徴を備えている。また、最上段の郭に寺院の堂塔の基壇と推定される石積みが残っていることや周辺に平安時代後期の陶器片が散在することなどから、創建時の太山寺が在った可能性が極めて高いとされる。
一方、遺跡全体の構造は、中世城郭の連郭式縄張りで、堀切、竪堀、土塁、袖郭など山城の特徴を示している。
これらのことから、太山寺城は古代天台系山岳寺院である太山寺を山城に改修したものと考えられている。
築城者については、太山寺城の城域が高島七頭の横山氏、田中氏、朽木氏の領地の境界にあたるので、この三氏のいずれかが城主であったと考えられているが、詳細は不明である。
なお、高島七頭は、近江源氏佐々木氏の庶流で鎌倉・室町時代を通じて高島南部を支配した七家を云い、高島越中氏を惣領家とし、他に永田氏、平井氏、山崎氏がある。

構造と感想
太山寺城跡は、比良山系の最北端に位置する阿弥陀山(標高453.6m)の南側中腹にある舌状尾根の標高290〜320m間に12の削平地を連郭式に配した山城である。
しかし、高島町横山集落から西北西に直線距離で2kmの山奥の谷相の支尾根上に位置しているため、平野部への見通しは利かない。
遺構は、尾根上に南北190m×東西90mの範囲に展開する山城と、東側の谷底部に造成された5か所の屋敷地とから成る。
山城の最高所にある郭は、南北50m×東西50mの台形に削平され、北側に一段高くなった22m×20mの長方形区画と西端に45mの低土塁が設けられている。この長方形区画の南東角部には石積みが残り、基壇を想起させる。
この曲輪より南下方へ連郭式に1〜3mの段差をもって7つの郭が連なっている。三段目と四段目の間は堀切を設け遮断し、その排土で四段目の郭に土塁を構築している。また、四段目の郭の南端には、クランク状の折れを設け石積みを築いている。
なお、二段目から四段目の郭の東側下方には、城内道を挟み北側に二段、南側に三段の袖郭が設けられ、北側袖郭の斜面には竪堀も入っている。
この竪堀の下、谷底部より登城路が東斜面を登っており、袖郭の南端下の虎口に達している。虎口より内部で、鋭角に曲って南北に設けられた土橋を通って一〜三段目の郭に入ることができる。
屋敷地は、湧水が多く湿潤な状態で雑草も繁茂しているため、少し広い平地があるかと感じる程度で、十分確認できない。また、基壇の上方尾根へ登ってみたが、城郭遺構らしきものは見当たらなかった。

道 案 内
国道161号高島バイパスの北畑交差点で西方向に県道38号線に入る。県道38号線を道なりに1.8km程西進すると安井川交差点に至る。その交差点を直進し県道293号線に入り、さらに3.8km程道なりに走ると県道は安曇川を渡る。渡った先の突き当たりで右折し、360m程先で左折、道なりに1.9km程行くと道は大きく左にカーブする。そのカーブ中程のY字路で右手の細い道に入り、太山寺集落内を260m程奥に進むと左手に東屋が建っている。その付近に駐車し、東屋を越えた所で二手に分かれる左手の林道を400m程登ると阿弥陀山の案内板がある。これより先は地形図で太山寺城跡を確認しつつ山道を10分程歩き谷筋に下ると縄張図付きの説明板の所に至る。尾根上が城跡である。

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