No25524−03 五番領城 (ごばんりょうじょう)       

天満宮の正面 背後からの遠景

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 安曇川町五番領字西良240
築城年 : 応安2年(1369)
形  式 : 平城
遺  構 : 土塁、空堀
訪城日 : 平成22年3月6日

歴   史
高島七頭の山崎氏の居城とされるが、山崎氏は西佐々木氏を祖先にしない領主で、本佐々木氏流の愛智氏でありながら西佐々木氏の中心の高島七頭に入っていることが注目されている。
『高島郡誌』によると「応安2年(1369)佐々木氏の麾下山崎兵庫頭 此地を領有し 城郭を築き以来 領内鎮護の神として尊崇し神田を寄付したり。」とあり、築城年代と天満宮を守護した状況が窺われる。また、「元亀年間(1570〜73)山崎左馬介 織田氏の為めに亡ぼされ社領も掠略せらる。」とあり、五番領城の山崎氏も他の西佐々木一族の諸城と同じく信長に屈し、子孫は農に降り、姓を中村と改め、その末裔が現在も城跡に住まいされている。

構造と感想
五番領城の位置に関しては、地誌類に記されておらず、はっきりしていなかったようであるが、五番領区有の江戸中期から明治初年にかけての「五番領村絵図」に城の一部と推定される堀が描かれたものがあり、城跡の特定につながったそうである。
五番領城は、西堀と東側の道路とに挾まれた信広寺、中村氏宅および天満宮などの敷地一帯に跨る60m×65mのやや南北に長い単郭方形の館城で、堀を含めると74m×79mの規模となる。
絵図によると信広寺と中村氏宅の裏側に南北に細長い「西堀」があって、その堀はさらに東へ折れてL字形を呈している。この西堀は、天保13年(1842)の絵図には載っておらず、江戸時代末期頃に埋められて、寺域や屋敷地が拡張されたと推測されている。
なお、土塁の一部が中村氏宅南西部に庭園の築山となって残るのが唯一の遺構である。

道 案 内
国道161号高島バイパスの青柳北を西方向に曲がり県道305号線に入る。県道305号線を西進し910m程行くとJR湖西線の高架下を通り抜ける。さらに480m程走ると五番領交差点に至り、そこを左折する。その先190m程行った右手に天満宮、その奥に信光寺があり、城跡である。

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