No25524−01 船木城 (ふなきじょう)       

願船寺 堀跡の低地(帯状の水田)

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 安曇川町北船木
築城年 : 南北朝期
形  式 : 平城
遺  構 : 堀、
訪城日 : 平成22年3月6日

歴   史
『高島郡誌』や『近江與地志略』に高島七頭の佐々木能登守が城主であったと記されている。
佐々木能登守は、新旭町平井に住していた平井氏から分かれて、受領名を能登守と名乗っていたことから能登氏を称するようになったとされ、師綱、時綱、頼泰、長綱、高勝、定持、持国と続くが、能登守を名乗ったのは時綱以降とされる。
なお、能登氏が安曇川河口部に位置する船木に入部した時期については、南北朝期の応安元年(1368)12月と同2年11月に平井師綱の子能登九郎左衛門尉師信が平井村内の土地を饗庭氏に売却していることから、この頃に移ったのであろうと推測されている。
明応6年(1497)、北船木の氏神である若宮神社の社殿を能登守長綱が造営しており、また、船木城の北東、鬼門の方角にある諏訪神社も勧請したと伝えられ、このころまでには城として船木城が整備されていたと考えられている。
唯一琵琶湖に面した立地の船木城は、重要な位置を占めていたと思われ、元亀3、4年(1572、3)織田信長が高島に侵攻した際、他の西佐々木一族の諸城とともに落城し、廃城になったようである。
天正3年(1575)には、能登守の子孫が城跡に願船寺を建立して現在に至っている。

構造と感想
船木城は、安曇川が河口付近で北川と南川とにわかれた三角州の中、高島郡安曇川町大字北船木字輪ノ内に所在し、古くから湖上交通の要衝として軍事的にも重要な位置をしめていた。
願船寺の建つ郭跡は約65mで周囲より約1.5m高くなっている。また、周囲には一見して空堀跡と分かる帯状の水田が取り巻き、その堀を含めると約100m四方の単郭方形をしている。

道 案 内
国道161号高島バイパスの青柳北交差点で東方向に県道305号線に入る。約3.4km程東進したT字路を左折し安曇川を渡り、直ぐ左折し堤防道路(堤防下に若宮神社が鎮座している。)を140m程西に進み、右折して坂道を降り、道なりに360m程行った左手側が願船寺である。

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