No25504−01 応昌寺城 (おうしょうじじょう)       

先端部を区切る堀切 先端部の郭

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 西浅井町塩津中、野坂
築城年 :
形  式 : 山城(標高146.4m)
遺  構 : 土塁、空堀、堀切、石積
訪城日 : 平成25年5月5日、10月13日

歴   史
城歴の詳細は不明であるが、「元亀年間の昔、信長が越前の浅倉氏を攻めるために、軍勢を率いて当の応昌寺の門前を通行の折、突然事もあろうに落馬したが、それは門前の古木のもとに鎮守の荒神が祭られ、古伝では何人たりともその神前を乗馬等の乗り物のままで通行すれば、おとがめ・たたりがあると聞いて、信長は立腹のあまり荒神(木像)の頭部を切り落としたという。即座に激しい腹痛をおぼえ、さすがの信長もざんげせざるお得なかった云々・・・」の伝承があり、このあたりは往古から敦賀・塩津浜間の街道を通行する人々を一刻下馬、下車させる古社もしくは番所に該当する遺構があったのではと推測され、応昌寺城はそれに関連する城郭か。
また、応昌寺はその昔「高源庵」と呼ばれ”とんちの一休”で知られた一休和尚の師の華叟宗雲禅師が京都より堅田の称名寺祥瑞寺を経てここ高源庵に住まわれたとの古伝もあり、堅田とこの高源庵の深いかかわりも考えられ、その墓塔が応昌寺に祀られている

構造と感想
城跡は塩津小学校の東側で標高146mの北から南に細長く伸びる丘陵頂部に約450m×約80〜30mの規模で築かれているようであるが、二股に分かれる南西先端部以外は遺構か農耕地か判別が付かない。二股の付け根から先端にかけて遺構らしき構造が見られる程度である。二股の西側は公園整備で改変を受けているものの、堀切状の深い窪地で先端部が区切られているのが分かる。東側は入り込む谷に面して石塁状の遺構が残る。付け根付近には低土塁が見られ、形状は虎口状である。いずれにしても不明瞭でどの様な縄張りかは分からない。

道 案 内
国道8号の木之本IC口交差点から西に国道8号を7.5km程道なりに行った塩津小学校前バス停を越えた交差点を右折し、また直ぐに右折する。120m程東進すると左手に小学校へ入る道があり、左折してその道に入ると50m程で小学校前に至る。校門を入った右手に公園へ通じる散策道があり、それを登ると城跡であ。

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