No25464-6 長沢城 (ながさわじょう)       

内堀跡と石碑 浅井御殿

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 坂田郡近江町長沢
築城年 : 平安期
形  式 : 平城 
遺  構 : 堀、                 
訪城日 : 平成23年11月20日  福田寺前の堀跡

歴   史
長沢城は保元の乱(1156)の戦功によって長沢領を与えられた長澤太郎冠者土佐守義盛が築城した城であるとされ、周囲に二重の堀を巡らした堅城であったと伝わる。
延元4年(1239)には、長浜の布施山から福田寺が移され、長沢城と福田寺は長く共栄したとされるが、応仁の乱(1467〜77年)の頃に何が原因か定かでないが長沢城は閉城したと伝えられる。
大永5年(1525)、天文7年(1538)の二度に亘る六角氏による浅井氏攻めでは、六角氏の本陣が長沢城に置かれ、また、天文年中には長沢村の北国街道に関所が設けられ、浅井氏や若宮氏の被官が在番していた戦略上の要地であった。
その後は、織田信長の一向宗弾圧に抗して福田寺が江北十ケ寺の中心的存在となり、僧兵や寺侍、宗徒の拠点となったが、慶長2年(1597)秀吉の古城取り壊し布告により長沢城の残部も取り除かれた。

構造と感想
長沢城は近江町長沢地区に位置し、旧国道8号線の西側集落の全てを包み込む構えを呈し、凡そ四方は水田と1m余りの比高をもって立ち上がっており、幅1m程の水路が廻っている。また、所によっては同様の水路が集落内に入り込み、屋敷を区画している。北と西側水路には、横矢掛りの屈曲が認められる。城域の北西部は真宗大谷派の福田寺が大きくその地を領有している。
長沢城の内堀に掛けられていた反り橋(そりばし)が長沢からおよそ2km南の宇賀野にある坂田神明宮に移設され現存している。福田寺境内にある書院は、浅井長政の小谷城から移したものと云われ、浅井御殿と呼ばれ県の文化財に指定されている。

道 案 内
国道21号の米原IC口交差点を西に2.1km程行った西円寺交差点で右折する。国道8号に入り北に1.5km程行った顔戸交差点で左折し、県道235号線に入る。県道235号線を西に490m程行くと宇賀野交差点でそこを右折し、県道556号線(旧国道8号)に入る。県道556号線を北に1.5km程進んで長沢御坊バス停を過ぎたT字路(福田寺の大きな石碑がある。)で左折し、突き当たりが福田寺で城跡である。その1本南の通り沿いの水路が内堀跡で、県道から少し西に入った所に内堀跡の石碑が建てられている。

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