No25462-2 弥高寺跡 (やたかでらあと)       

大門の枡形・石積み 背後の大堀切

城郭の概要
関ヶ原方面を望む
別  名 :
所在地 : 坂田郡伊吹町弥高
築城年 : 室町期
形  式 : 城郭寺院(標高714m)
遺  構 : 枡形虎口、土塁、堀切、石積み            
平成23年4月30日         

歴   史 大門跡   凡例:

伊吹山は平安時代初め比叡・愛宕などの諸山とともに「七高山」の一つに数えられた。仁明天皇期(833〜850)に役行者や泰澄が入山し「一精舎」を建て、仁寿年間(851〜853)に山林修行者・三修が伊吹山に登り上額寺に列せられ、伊吹護国寺が成立したとされる。この後、弥高寺・太平寺・朝日観音寺・長尾寺の伊吹四ヶ寺に発展し、当寺は中世伊吹修験の中心寺院となっていった。
しかし、応仁の乱以降、京極家の内紛では、明応4年(1495)に京極政高(政経)が弥高寺に軍を進め、翌年には対立する京極高清が弥高寺に布陣した記録が残っており、この頃、弥高寺は京極氏の出城の役割を果たしていた。一方、天文5年(1536)に「47坊院あり」との記録が見え、寺院としても存続していたことが伺える。
元亀元年(1570)には、浅井・朝倉軍が織田軍の侵攻に備え、城郭施設の改修を行っている。
浅井氏滅亡後の天正8年(1581)寺は西の山麓に移転し、寺院としても城郭としても機能を終えたと思われている


構造と感想                   
本坊南の土塁と虎口
60を超える坊跡群は、東西約250m、南北約300mの範囲にあり、最上段の本坊は、東西約68m、南北約59mで中央山手に1辺が18m四方の基壇がある。
城郭遺構としては、南前面に枡形虎口の大門と横堀による防御ラインを設け、本坊背後には、畝状竪堀群や巨大な土塁を持つ郭、その背後を大堀切で区画している。南西隅部にも随所に竪堀を設けており、寺院内部の改変を抑えながら縁辺部を厳重に防御する形態に改修されている。現在は、京極氏舘、上平寺城とともに国史跡に指定されている。

道 案 内
県道37号線の長浜IC口交差点を東に3.6km程行った東上坂交差点で右折する。国道365号に入り南東に3.7km程行った野一色東交差点で左折、県道40号線に入り北東に1.5km程行き「道の駅・伊吹の里」の交差点で右折する。南東に広域農道を2.4km程行き「伊吹ハム」の交差点で左折、南東に430m程行った先のT字路を左折する。その先90m程で右折し、後は1.1km程道なりに坂道を上がる。悉智院を過ぎると採石場の場内となるが真っ直ぐ奥へと進むと左カーブし採石場内となるが、そこを曲がらずに直進して林道に入る。林道を300m程行った先に車止めがしてあるので、その辺りに駐車し、林道を50分程登ると広場があり説明板が設置されている。説明板の所から背後の山道に入り10分弱で大門跡に至る。
なお、上平寺城から行者谷に少し下り、また登るルートで弥高寺跡に来ることもできる。

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