No25461-09 八講師城 (はっこうしじょう)       

主郭の土塁と城址碑 現地の縄張図

城郭の概要
東郭の虎口
別  名 :
所在地 : 坂田郡山東町梓河内        
築城年 : 不詳
形  式 : 山城(標高480m) 
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、虎口、石積み
訪城日 : 平成23年4月30日

歴   史
小谷城方面
「改訂坂田郡志」には、「多賀豊後守高忠の拠りし所と云う。・・・・佐々木管領の頃、澤田民部大輔此所に居城せりとも云う。」としているが、詳細は不明でる。
なお、多賀豊後守高忠は、室町時代後期から戦国時代前期の武将で多賀氏の一派・多賀豊後守家当主で京極氏の重臣で主君・京極持清とは従兄であった。2度にわたって室町幕府京都侍所所司代を務め、名所司代として知られる。持清の病死後、子の政経を庇護し、京極高清等に対し一時優勢であったが、文明4年(1472)に敗れて政経とともに越前に逃れ、その後は近江の旧領への復帰は叶わなかったようである。

構造と感想
八講師城は、頂部から東に延びる尾根上に郭を連ねた連郭式の山城である。
主郭部分は三段構造になっており、頂部は南西部に巨大な土塁が削り出され、その裾には巨石が散乱している。削平は甘く狭い平坦部しか持たないが、土塁の南西隅部が高く分厚く櫓台と思われる。派生する尾根筋には堀切を設け、切岸も急峻で、守りは堅固で頂部の郭が主郭と考えられる。その主郭から北西と南西に派生する尾根に設けられた堀切の外に、急激に大きく落ち込んだ切岸の下に数段の細長い郭が続いている。
主郭の東に一段下がった中郭とその一段下の東郭は、長方形で郭内はよく削平され広さもある。中郭には南西部に主郭に上がる坂道状の土塁があるのみで他に土塁は無い。北下方に伸びる尾根には、数段の腰郭が設けられ、斜面には数条の竪堀があり、斜面の回り込みを遮断している。南の斜面は、攻め手を寄せ付けない急峻な切岸となっている。
東郭は南と東に幅広の低土塁を持ち、南東部に明瞭な外枡形虎口があり、虎口両側は幅が広く石積みで固められた土塁であり、多聞櫓状の施設があったものと思われている。
更にその東の尾根上にも削平地と思われる所が見受けられ、縄張図以上に城域は広がっているように思われる。
なお、主郭部分の構造を小谷城に例えれば、主郭が鐘丸、中郭が大広間、東郭が桜馬場に相当するのでないだろうか。

道 案 内
主郭への坂道状土塁
国道21号米原IC口交差点を東・大垣方面に5.7km程行った梓河内交差点で右折し、直ぐ名神の下をくぐる。そのまま南に200m程行った十字路(左手に案内板が立っている。)で左折する。その先は林道稗谷線で、直ぐに道は大きく左にカーブし、次ぎに右へのU字カーブとなる。U字カーブを出た所にゲートがあるが施錠はされていない。そこから林道を4km程登っていくと左手に案内板があり、その先に広い平坦地があり駐車できる。駐車場からの見晴らしがよい。
案内板の右側から背後の山へ登っていくが、途中に尾根が分岐しているので、左手の西尾根を進んで行くと5分程で城跡に至る。
  

TOPへ 戻る