No25461-02 須川城 (すがわじょう)       

城址碑(奥が堀跡) 観音堂

城郭の概要
姉川合戦場の墓碑
別  名 : 遠藤氏舘
所在地 : 坂田郡山東町須川
築城年 : 鎌倉期
形  式 : 平城(居舘) 
遺  構 : 堀、郭
訪城日 : 平成22年2月28日   

歴   史
遠藤氏は、鎌倉武士の出身といわれ鎌倉時代に近江に所領を得て下向したとされ、代々須川一帯を治め須川城を居とした。戦国末期の遠藤喜右衛門直経は、豪勇をもって知られ、姉川合戦において討死した。その子孫は、羽柴秀吉に引き立てられ伊勢鵜河原にて400石の知行を得、幕末まで土豪として存続している。
元亀元年(1570年)の姉川合戦で浅井軍の敗色濃厚となった際、直経は味方武将・三田村左衛門の首級を掲げて、織田の武将になりすまし、「御大将は何方に座しますぞや。浅井の大将・三田村左衛門の首を討ち取って参った。」と大声で呼ばわり、信長の本陣に近づいた。ところがかねてより顔見知りの竹中半兵衛の弟・久作重矩がこれを見とがめ、すんでのところで捕まり、首をはねられたと云う。

構造と感想
舘跡は、現在の観音堂を含む一帯で、現存する池を堀の一部とし、左手50m四方の宅地を舘跡と比定している。観音堂裏山に削平地があり、竪堀や土塁の一部も残るようである。また、舘跡比定地の一段高い所に東西50m、南北60mの地形(現況・田)があるが、舘跡かは不明とされる。
なお、観音堂の右奥には、直経の墓石がある。
遠藤氏は、浅井氏譜代の家臣で、特に直経は「佐和山城での織田信長暗殺、朝倉義景の見限り」等の先を見通した進言を行っているが、入れられず浅井氏は滅びの道を歩むことになる。しかし、直経は最期まで主君に忠義を尽くした浅井きっての勇将であったと有名である。

道 案 内
直経の墓石
国道21号の米原IC口交差点から東・大垣方面に8.4km程行った柏原交差点で左折し、県道551号線に入る。北に1.6km程行った須川バス停のあるT字交差点を右折し、東に260m程進むと須川集会所前に至る。その山手の観音堂一帯が城跡である。
                              

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