No25424-05 畑田城 (はたけだじょう)       

土塁と堀 土塁

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 愛知川町畑田
築城年 : 不詳
形  式 : 平城(居館)
遺  構 : 土塁、堀
訪城日 : 平成22年7月10日     

歴   史

滋賀県刊行の「淡海の城-滋賀県中近世城郭分布地図-」に城主・羽柴長兵衛と記されるが、その出典は不詳のようである。
現地案内板には、「六角氏の観音寺城を守る前線基地としての役割をはたした城郭であると推定されるが、文献によって城主などの詳細を確認できない。」とある。
しかし近年、広島県三原市で享保期の畑田城跡の様子が記された「江州愛智郡畑田村上田宗箇城跡之覚書」享保6年(1721)の奥書がある近世史料が発見された。
その史料には城主を上田宗箇であったとしている。上田宗箇は丹羽長秀に仕えた茶坊主で長秀が越前府中城主となったとき1万石を領する武将になった。その後、関ヶ原合戦で西軍に属し浪人するが、浅野幸長に招かれ安芸広島藩に仕えた。宗箇は千利休、古田織部に茶の湯を学び、上田宗箇流を興した茶人であるとともに、作庭にも造詣が深かった。
この史料が畑田城を上田宗箇の居城と記す根拠は不明であり、他に傍証する資料も存在しないようである。


構造と感想
畑田集落の北側、天一神社の北背面に東西200mにわたって土塁や堀が残っている。土塁の規模や軸線のズレなどから5区画に分かれるとされ、中心となる郭は北に張り出た中央の2区画とされる。中心郭の両側に軸線が南にズレる副郭が東に1区画、西に2区画付加されている。
特に中央2区画の西の区画は、藪の中に土塁・堀・井戸が完全な形で残っている。その土塁は高さが2m、基底部幅が5m、堀は幅が2m、深さが1~1.5mを測る。さらに土塁南側裾に直径1m、深さ2.2mの石組み井戸が残っている。これは上記の覚書に記された様子と一致している。
また、中心郭の東の区画には北への開口部があり、虎口と考えられている。
しかし、南部は近世以降の開発により崩されており、全体の規模は不明である。 

道 案 内            
 中央に蓋された井戸
名神彦根ICを出た国道306号の原町交差点を西に770m行った国道8号の外町交差点を左折する。国道8号を南に13.2km程行った御幸橋北交差点を左折する。県道213号線に入り、東に460m程行ったY字路を左斜めに進む。道なりに1.9km程行くと平居交差点で直進し、410m先の左手に天一神社があり、鳥居の傍に説明版がある。城跡遺構は、神社の裏手である。             

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