No25401−19 山上陣屋 (やまがみじんや)       

陣屋跡地

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 永源寺町山上
築城年 : 寛政6年(1794)
形  式 : 陣屋
遺  構 : ー
訪城日 : 平成25年6月9日

歴   史
山上は鎌倉時代から室町末期まで小倉氏が支配していた。
天正11年(1583)秀吉が北政所の叔父・杉原家次(坂本城主)に山上庄2336石を知行として与えたが、翌年に他界。次に北政所の義従兄・浅野長政(大津城主)の知行地に加え、近江と伊勢国を結ぶ八風越えに備えた。天正19年(1591)お鍋の子織田信高(織田信長の遺児に山上庄内1060石を与えたが、慶長4年(1599)他へ移された。
元和5年(1619)山上は高崎城主安藤重信の所領となり、重長、重博と続き、元禄8年(1695)備中松山に転封となり、天領となった。元禄11年(1698)譜代稲垣長茂の孫・稲垣重定の筆頭所領となるが、稲垣氏は幕閣の重鎮で江戸定府大名で参勤交代もなく、藩政は大津蔵役敷で代行されていた。寛政6年(1794)定淳の時に山上陣屋が設けられ、明治維新まで藩主稲垣氏が存続した。
明治2年(1869)の版籍奉還で藩主稲垣太清は、家臣72世帯と共に山上に帰り、藩主宅9軒、長屋11軒の完成まで村内の安養寺に寓居し、藩知事の職務を執行した。(現地説明板より)
なお、山上稲垣氏は、伊勢鳥羽稲垣氏の分家で、稲垣重定の父重太が6千石を分知され旗本に列し、重定が延宝2年(1674)に若年寄に昇進、加増されて13,000石を領して大名となっている。

構造と感想
山上陣屋は、和南川と愛知川の合流点に架かる紅葉橋南詰北側にある駐車場脇に「元天神社鎮座地」の石碑と陣屋案内板があり、その南側一帯が陣屋であったようであるが、現在では何も遺構は残っていない。

道 案 内
名神高速道八日市インターを下りて国道421号を東の永源寺方面に進み、2.4km程行った国道307号との御園交差点を直進、更に国道421号を東進すると5.2km程山上小学校前交差点を左折する。県道188号線に入り300m程行った紅葉橋南詰交差点から左折し西に入ると直ぐ右手に説明板があり、説明板の向かい南側一帯が陣屋である。

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