山上は鎌倉時代から室町末期まで小倉氏が支配していた。
天正11年(1583)秀吉が北政所の叔父・杉原家次(坂本城主)に山上庄2336石を知行として与えたが、翌年に他界。次に北政所の義従兄・浅野長政(大津城主)の知行地に加え、近江と伊勢国を結ぶ八風越えに備えた。天正19年(1591)お鍋の子織田信高(織田信長の遺児に山上庄内1060石を与えたが、慶長4年(1599)他へ移された。
元和5年(1619)山上は高崎城主安藤重信の所領となり、重長、重博と続き、元禄8年(1695)備中松山に転封となり、天領となった。元禄11年(1698)譜代稲垣長茂の孫・稲垣重定の筆頭所領となるが、稲垣氏は幕閣の重鎮で江戸定府大名で参勤交代もなく、藩政は大津蔵役敷で代行されていた。寛政6年(1794)定淳の時に山上陣屋が設けられ、明治維新まで藩主稲垣氏が存続した。
明治2年(1869)の版籍奉還で藩主稲垣太清は、家臣72世帯と共に山上に帰り、藩主宅9軒、長屋11軒の完成まで村内の安養寺に寓居し、藩知事の職務を執行した。(現地説明板より)
なお、山上稲垣氏は、伊勢鳥羽稲垣氏の分家で、稲垣重定の父重太が6千石を分知され旗本に列し、重定が延宝2年(1674)に若年寄に昇進、加増されて13,000石を領して大名となっている。 |