No25401-08 黄和田城 (きはだじょう)       

西面の石垣 京極黄蘗城跡の碑

城郭の概要                  
別  名 : 黄蘗城
所在地 : 神崎郡永源寺町黄和田町
築城年 : 南北朝期
形  式 : 丘城
遺  構 : 石垣、土塁、
訪城日 : 平成22年12月11日

歴   史
黄和田城は、南北朝期に江勢国境を結ぶ八風街道を押さえるために、小倉氏によって築かれたと推測されている。
当地の大善寺が所蔵する「勅願新善光寺如来縁起」に「黄和田村に青山氏の先祖在城の時・・・・」とあり、青山氏は小倉氏一族の青山大蔵太輔幸成とされている。長享2年(1488)8月4日には、京極持清の後継を争い京極高清と秦川(現在の愛荘町)の松尾で戦い敗れた京極大膳大夫政高(政経)が黄和田城に逃れたと伝えられ、明応5年(1496)正月には政高の子・材宗が在城していた。永正2年(1505)には材宗と高清は和睦し、正式に高清が京極氏の当主になったようである。また、永正年中には小倉氏の家臣河副公政が、永禄年中には河副吉長が八風峠の目付を命ぜられ在城している。

構造と感想
黄和田城は、愛知川に沿って伊勢へと通じる八風街道を見下ろす黄和田集落の東側の山裾に築かれた屋敷跡とされ、その麓は「城の腰」と呼ばれている。
「城の腰」には、整然と積まれた石垣を伴うひな壇状の削平地が続き、最高所の山裾に城址碑と説明板が建てられている。屋敷跡は、山裾を削り込むように削平し、西側前面に石垣を築いて広い平坦地を確保しており、その北端部は竪土塁で仕切られている。なお、城跡を東西に二分するように石塁が不自然な位置に築かれているが、この石塁は南に降りながら延々と伸びており、遺構とは関係ない後世のシシガキである。なお、前面の石垣が当時のものかは判別し難い。

道 案 内

(登り口)
名神高速道八日市インターを下りて国道421号を東の永源寺方面に進み、2.4km程行った国道307号との御園交差点を直進、更に国道421号を5.3km程東進すると山上小学校前交差点に至る。その交差点も直進し紅葉の名所・永源寺も越えて3.2km程行くと右手に永源寺ダムが見えてくる。さらに道なりに国道421号を7km程進むと黄和田の集落に至る。右に大きくカーブして集落に入って直ぐの所で鋭角に左折し、100m程の坂を登り右折する。集落内を通り南東に670m程行き、集落はずれで鋭角に左折し、道なりに280m程進むと道が二手に分岐するので右に進む。その先100m程で山裾への登り口がある。東に140m程で城跡である。

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