No25401-07 おなべ館 (おなべやかた)       

大石の石垣 枡形状虎口

城郭の概要                  
別  名 : 高野館
所在地 : 神崎郡永源寺町高野
築城年 : 織豊期
形  式 : 平城
遺  構 : 石垣、虎口、土塁、
訪城日 : 平成25年6月9日         お鍋屋敷の伝承地

歴   史
上段石垣中央のスロープ、説明板より
この地は、戦国時代には小倉右京亮の所領で、その妻お鍋は夫の亡き後、織田信長の側室に迎えられ、信長亡き後は、天正11〜19年に豊臣秀吉から当地高野に500石の領地を賜ったとある。また、織田信長とお鍋の子である織田信吉が、天正13年(1583)に羽柴秀吉から神崎郡高野村や犬上郡宇尾村に2000余石の所領を賜り、羽柴武蔵守と名乗って高野に城を築き在城したとされる。
高野館遺跡は中世の城館で、石垣を用い規模の大きなスロープや枡形状虎口を備えている点などから、お鍋が賜った館若しくは羽柴武蔵守が築いた城館跡と考えられている。
        

構造と感想
高野館は、愛知川上流の河岸段丘上にあり、対岸を通る八風街道に対峙し築かれている。
団体営圃場整備に伴う耕地整理の実施に先立ち、平成18、9年に滋賀県安土城郭調査研究所が発掘調査を行い、出土遺物や石垣の構築手法から織豊期の城館遺構とされた。
遺構は、石垣(幅約55m、下段の最大高約3m、上段最大高約1.5m)に囲まれた上下2段の平坦地で、上段石垣の中央部分には幅6mのスロープが取り付けられていた。さらに、下段石垣の南端張り出し部分には、枡形状虎口が見つかっている。
なお、平坦地は、後世の耕作のために建物遺跡は残っていないが、石組井戸1基の他近世の井戸2基なども見つかっている。遺物は、16世紀から近世までのもので、中には織部向付や染付碗、白磁碗などの高級陶磁器も含まれており、富裕な人物が居住していたようである。
広い平坦地に大石を用いた石垣を見ると「お鍋屋敷」の伝承にも肯けるような気がするが、今回の遺構はお鍋屋敷の伝承地から南東に200m程離れて発見されている。

道 案 内
名神高速道八日市インターを下りて国道421号を東の永源寺方面に進み、2.4km程行った国道307号との御園交差点を直進、更に国道421号を5.3km程東進すると山上小学校前交差点に至る。その交差点を左折し、300m先の紅葉橋を渡り、直ぐの左手に高野神社の鳥居があり、左折して鳥居をくぐる。坂道を160m程登り左折すると茶畑内の農道に入る。農道を140m程進み左折し、70m先で右折すると突き当たりが館跡である。

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