No25367−07 多羅尾代官陣屋 (たらおだいかんじんや)       

上段への坂道 下段の石組井戸

城郭の概要                  
別  名 : 信楽役所、信楽陣屋
所在地 : 信楽町多羅尾字古殿、前谷    
築城年 : 寛永15年(1638)
形  式 : 陣屋
遺  構 : 石垣、庭園、城道、井戸、石組水路、
訪城日 : 平成23年10月9日

歴   史
多羅尾代官陣屋は、江戸時代に幕府勘定奉行のもとで、直轄地の支配を行う代官を世襲で勤めた多羅尾氏の居館であるとともに代官所である。
多羅尾氏は、鎌倉時代の太政大臣近衛経平の庶子とされる高山師俊を祖とし、後に多羅尾氏を称した。室町時代には近衛家領信楽庄の代官を務めていることが、応仁2年(1468)8月19日から10月19日の二ヶ月間にわたり、都の戦乱を避け小川の大興寺に滞在し、直務支配を行った近衛政家の日記『後法興院政家記』に記されている。
その後、長享元年(1487)室町将軍による六角征討で六角高頼に与した多羅尾光紀は、鎌倉時代末に近衛家小川荘荘官となり、この地に勢力を保持していた鶴見成俊が将軍方に与したため、これを攻め駆逐、さらに近衛家領を横領し、小川を拠点に信楽谷の最大勢力へと成長していった。
永禄11年(1568)織田信長が近江に侵攻し、六角氏が没落すると、多羅尾光俊は信長に仕え、天正9年(1581)の「伊賀攻め」等に参陣し戦功をあげている。
天正10年(1582)本能寺の変に際しては、和泉国堺から甲賀・伊賀を通って三河へ帰還する徳川家康を多羅尾光俊・光太父子が守護して、伊勢国白子の浦まで送り届けている。同11年(1583)2月羽柴秀吉が伊勢の滝川一益を攻めると、多羅尾光俊は山城国から侵攻する浅野長政率いる羽柴軍を四男光量が拠る和束別所城で撃退して、長政の一人娘を三男光定の嫁とする条件で和睦、以後、多羅尾光俊は羽柴秀吉の配下に入り、信楽を本拠に信楽、伊賀、山城、大和に8万石を領する大名へと出世した。
しかし、文禄4年(1594)に光俊の嫡男光太の娘が豊臣秀次に嫁していたため、秀次の切腹に連座して多羅尾家は改易されたが、慶長5年(1600)に徳川家康から多羅尾村のほか信楽谷の長野、杉山、信楽畑、柞原下、柞原中の六ヶ村で1,500石を与えられ、旗本として代々天領代官(多羅尾陣屋)を世襲し明治に至っている。
多羅尾氏は、幕末には近江、山城、河内、伊勢において11万石を支配高を預かり、四日市に出張陣屋を置き、幕府代官中でも格の高い重要な位置を占めた。
東側の切岸 上段の遠景

構造と感想
多羅尾代官陣屋は、信楽町多羅尾のうち上出集落にあり、大戸川に注ぐ滝川の谷に向かって、南から北にのびる尾根の先端東斜面に築かれている。
構造は、逆「く」の字をした南北に細長い敷地で、上段と下段の二つの区画に分かれている。北側が上段で陣屋建物や庭園が構えられ、上段の南西隅から坂道を下りると下段で蔵屋敷が設けられたと伝わっている。城内道は、東面中央の表口を入り、西進し斜面裾で北に90度折れ、坂道を上り上段に達していた。城内道と高低差で上段と下段が分かれていた。
江戸時代の建物はすべて撤去されているが、陣屋、代官蔵、表庭園、裏庭園、蔵屋敷などの施設の位置は明らかになっている。

道 案 内
新名神高速道路を下りた信楽IC交差点を右折し、国道307号を南に向かう。道なりに6.5km程行った長野交差点を右手に曲がり、さらに国道307号を3.4km程行った中野交差点で左折する。市道を南東方向に道なりに1.6km程行ったT字路で右折し、県道138号線に入る。県道138号線を道なりに4.9km程行った交差点で右に緩やかにカーブする県道334号線に入り、大戸川の橋を渡る。県道334号線を500m程南下し再び大戸川の橋を渡ってそこから170m程行き左折する。南に道なりに380m程行った右手が陣屋跡である。

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