No25367−02 小川城 (おがわじょう)       

主郭と虎口 主郭土塁内側の石垣

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 信楽町小川字和田
築城年 : 天正13年(1585)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、石垣、虎口、櫓台、井戸
訪城日 : 平成23年11月3日

歴   史
小川城の築城時期や城主に関しては諸説があり、平安時代末に興福寺信楽荘下司職として入部した小川氏、鎌倉時代末に近衛家小川荘荘官となった鶴見氏、さらに近衛家の庶子である高山師俊(多羅尾家の祖)の三家が小川に城を構えたとの伝承があり、小川にある「小川城」、「小川西之城」、「小川中之城」の三城もさまざまな名称で呼ばれいたようである。
これらの記録から小川城は、鎌倉時代末に鶴見伊予守長実によって築城され、長享元年(1487)の室町将軍による六角征討直後に将軍方であった鶴見氏が駆逐され、16世紀後半には小川氏も駆逐され、三城すべてが多羅尾氏の城になったと考えられている。そして、天正13年(1585)頃に多羅尾光俊により小川城の大改修が行われ、現在に残る構造の城郭となったと考えられている。
しかし、文禄4年(1594)に光俊の娘が嫁していた豊臣秀次の切腹に連座して多羅尾家が改易され、小川城は10年あまりで廃城になった。
なお、天正10年(1582)本能寺の変に際して甲賀から伊賀を通って三河へ逃げ帰った徳川家康が、甲賀で一夜を 明かしたのが本城であったとも伝えられる。
多羅尾氏は、慶長5年(1600)に徳川家康から1,500石を与えられ、旗本として代々天領代官(多羅尾陣屋)を世襲して明治に至っている。
小川城の正確な場所は長らく判明していなかったが、昭和49年に地元老人クラブが植林中に発見し全容が確認された。昭和53、4年には、信楽町教育委員会により踏査・測量調査と一部発掘調査が行われている。 
主郭部の虎口 西端の堀切

構造と感想
小川城は、信楽町小川の南東に位置する城山の山頂部に所在し、信楽谷の南半分を眼下に収めている。
構造は、山頂部に「へ」の字状の主郭を置き、東方には大きい段差で下がった腰郭、腰郭から北東に約60m離れた尾根筋のピークに出丸を配している。西方へは堀切を隔て東西40m、南北20mの西の郭、西の郭から北西にのびる支尾根に水の手を守備する東西26m、南北28mの郭を配している。この城は、甲賀に一般的な単郭方形の城郭と異なり連郭式山城であり、信楽は単郭方形に加え、異なる形式の城郭が混在する特異な状況が認められる。
主郭は、中央に北・東壁面を石垣、南・西面を土塁によって囲まれた東西約11m、南北約10mの方形区画を設け、その中には五間×四間の建物の礎石が発掘で見つかっている。この方形区画から南西に出て、北西に90度折れた先が虎口で、さらに城道は虎口を出て北東に90度折れ、方形区画の西斜面を下って行く。虎口を入った南東側は、一段高い東西約9m、南北約15mの区画で、その北面に低土塁、南東面に東西約8m、南北約15mの櫓台が築かれている。中央の方形区画の東側も一段高く、東西約6m、南北約12mの西面を除く三方が土塁囲みの区画で、その東面土塁と空堀を隔てて、南面の西側半分に礎石のある土塁が付帯する東西約22m、南北約15mの平地となっている。以上が主郭部である。
なお、発掘調査では、出土遺物は多くないが、中国製の白磁・染付をはじめ、美濃焼の天目茶碗・猿形の水滴、信楽焼の壷・鉢・擂鉢、土師器小皿・小型羽釜などの土器類と、硯・宋銭・鉄釘などが出土し、おおよそ16世紀の後半代に築城され使われたことが判明している。
現在、主郭部と東の郭の一帯は手入れされ樹木や竹などがなく、遺構や眺望を楽しむことができる。
水の手を守備する郭 北東を望む

道 案 内
新名神高速道路を下りた信楽IC交差点を右折し、国道307号を南に向かう。道なりに6.5km程行った長野交差点を右手に曲がり、そこから国道307号をさらに3.4km程行った中野交差点で左折する。市道を南東方向に道なりに1.6km程行ったT字路で右折し、県道138号線に入る。県道の南西方向100m程先のT字路(左手に案内板あり)で左折し、直ぐのT字路を直進して400m程東方向に行くと右手に案内板がある十字路で右折し、坂道を上り林道を470m程山に入るとY字路がある。右手に進み230m程行ったT字路で右折する。右折して330m程上るとまたT字路があり右折する。180m程上るとY字路があり左手に進み、170m程で城跡である。
城跡から二つ目のT字路の間が急な坂道で道幅も狭いので、無理をせず歩いて上った方が安全かもしれません。

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