No25366−10 No25363−11
倉治城 饗庭城
(くらじじょう) (あいばじょう)

倉治城中核部の南側土塁 饗庭城の外側土塁

城郭の概要                 城郭の概要
別  名 : 別  名 : 合羽城
所在地 : 甲南町新治字西庵 所在地 : 甲南町竜法師字合羽
築城年 : 室町時代 築城年 : 室町時代
形  式 : 平城 形  式 : 平城
遺  構 : 土塁・空堀・水堀 遺  構 : 土塁・空堀
訪城日 : 平成23年3月26日 訪城日 : 平成24年5月5日

歴   史
・・・・倉治城・・・・の築城年代は定かではないが、室町時代に倉治右近によって築かれたと云われている。倉治氏は、甲賀五十三家の一つに数えられた土豪である。
・・・・饗庭城・・・・の城歴などは、詳細不明である。

構造と感想
・・・・倉治城・・・・は、新治(倉治村と新宮上野村が合併し成立)のうち倉治集落に位置し、磯尾川左岸の河岸段丘上に築かれている。城域の東側は磯尾川の段丘崖、北側は崖状の段差になっている。西側は新宮神社の参道が南北に走り、南側に隣接して永正年間(1504〜21)創立とされる浄土宗善願寺がある。
縄張りは、集落内に散在する遺構や地形、地籍図から少なくとも六つの区画があったと推定されている。北東端から半町規模の方形区画が南方向に三区画、南の区画の西に一区画の四区画が逆L字に連続し、少し離れた南方に30〜40m四方の二区画が付随している。さらに西100mには、倉治氏の家臣が居住していたと伝承される半町規模のカリヤ城があり、倉地氏を中心とする同名中構成員の城館が散在する構造をしていたと推測されている。
北東端から南方向に連続する三区画のうち、南側の二区画に断片的ながら比較的多くの遺構が残っている。三の区画の南と西側にあたり、集落中央を南北にクランクしながら通る道路沿いに残る土塁と その土塁の南端から東に伸びる堀底から4mはあろう土塁が見事である。さらに二の区画の北と東側にあたる北東隅に曲尺状の水濠があり、北西に少し離れても水濠が、さらに西に水濠と思われる窪地が続いている。この堀は連続しておらず、中央部が北に張り出し喰い違いになっており、虎口があったと見られている。北東隅の水濠の内側には、独立丘状の土壇が残るが、虎口の防御を固める櫓台と考えられている。土壇の西と南側へは、帯状に高まりが続いており、堀沿いに土塁が築かれていて、虎口に面して櫓台として高くしつらえたと見られている。この他にも、南方の二区画に伴う土塁や水濠などが残っている。
・・・・饗庭城・・・・は、竜法師の北方、杣川を見下ろす河岸段丘上に築かれている。遺構は、段丘先端の縁辺に沿って、高さ3mの土塁と深さ約1.5mの空堀が東西70mにわたって残存しているが、竹林や耕地造成に伴う改変で全体の形状は不明である。外側の土塁は東端で南に直角に曲がり、堀を挟んで内側にも土塁が存在する。さらに西側に高さ約1mの土塁が40mにわたり、段丘の縁辺に沿って折れを伴いながら続いている。高さ3mと1mの土塁の間が開口しているが、虎口かは不明とされる。城郭本体部は、これらの残存遺構の南側に広がる段丘上に広がっていたと思われ、昭和の中頃に撮影された空中写真には、西辺から南辺にかけて堀跡を思わせるL字状の水田区画が写っていたようだが、現在では確認できない。

道 案 内
新名神高速道を甲南インターで下りた最初の交差点である甲南IC口交差点で左折し、広域農道に入り560m程北進すると新治口交差点に至る。
・・・・倉治城・・・・へは、新治口交差点で左折して、北西方向に910m程進み、大きな十字路交差点に達する。大きな十字路交差点で右折して、県道132号線に入り600m程道なりに進むと県道49号線との交差点に至る。右折して県道49号線に入り、730m程東進した磯尾川を渡る手前の三差路の左手奥一帯が城跡である。三差路の対面北側の細い道から集落に入り、110m程北上し二つ目の十字路を右折し、25m東進すると土塁が現れる。
・・・・饗庭城・・・・へは、新治口交差点で右折して、東に970m程進んだ大きな十字路交差点で左折する。北に860m程走り「忍者の里プララ」バス停付近のY字路で左手の細い道に入る。その道を90m程北上しT字路で左折し、右にカーブしながら25m進み、二股に分かれるところで左手に入る。西に90m程行ったT字路を右折し、120m程北上すると行き止まりで、その先の竹林が城跡である。なお、私は「忍者の里プララ」バス停を通り越し、300m先の竜法師交差点の左手農協に駐車させていただき、段丘を下から登って訪城した。

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倉治城中核部の北側水濠 饗庭城の開口部
倉治城中核部北東隅の櫓台 饗庭城の郭内より縁辺部を望む