・・・・倉治城・・・・は、新治(倉治村と新宮上野村が合併し成立)のうち倉治集落に位置し、磯尾川左岸の河岸段丘上に築かれている。城域の東側は磯尾川の段丘崖、北側は崖状の段差になっている。西側は新宮神社の参道が南北に走り、南側に隣接して永正年間(1504〜21)創立とされる浄土宗善願寺がある。
縄張りは、集落内に散在する遺構や地形、地籍図から少なくとも六つの区画があったと推定されている。北東端から半町規模の方形区画が南方向に三区画、南の区画の西に一区画の四区画が逆L字に連続し、少し離れた南方に30〜40m四方の二区画が付随している。さらに西100mには、倉治氏の家臣が居住していたと伝承される半町規模のカリヤ城があり、倉地氏を中心とする同名中構成員の城館が散在する構造をしていたと推測されている。
北東端から南方向に連続する三区画のうち、南側の二区画に断片的ながら比較的多くの遺構が残っている。三の区画の南と西側にあたり、集落中央を南北にクランクしながら通る道路沿いに残る土塁と
その土塁の南端から東に伸びる堀底から4mはあろう土塁が見事である。さらに二の区画の北と東側にあたる北東隅に曲尺状の水濠があり、北西に少し離れても水濠が、さらに西に水濠と思われる窪地が続いている。この堀は連続しておらず、中央部が北に張り出し喰い違いになっており、虎口があったと見られている。北東隅の水濠の内側には、独立丘状の土壇が残るが、虎口の防御を固める櫓台と考えられている。土壇の西と南側へは、帯状に高まりが続いており、堀沿いに土塁が築かれていて、虎口に面して櫓台として高くしつらえたと見られている。この他にも、南方の二区画に伴う土塁や水濠などが残っている。
・・・・饗庭城・・・・は、竜法師の北方、杣川を見下ろす河岸段丘上に築かれている。遺構は、段丘先端の縁辺に沿って、高さ3mの土塁と深さ約1.5mの空堀が東西70mにわたって残存しているが、竹林や耕地造成に伴う改変で全体の形状は不明である。外側の土塁は東端で南に直角に曲がり、堀を挟んで内側にも土塁が存在する。さらに西側に高さ約1mの土塁が40mにわたり、段丘の縁辺に沿って折れを伴いながら続いている。高さ3mと1mの土塁の間が開口しているが、虎口かは不明とされる。城郭本体部は、これらの残存遺構の南側に広がる段丘上に広がっていたと思われ、昭和の中頃に撮影された空中写真には、西辺から南辺にかけて堀跡を思わせるL字状の水田区画が写っていたようだが、現在では確認できない。 |