No25365−19 No25365−20
岩室城 高野城
(いわむろじょう) (たかのじょう)

岩室城 北側の土塁 高野城 南虎口

城郭の概要                 城郭の概要
別  名 : 別  名 :
所在地 : 甲賀町岩室字中野 所在地 : 甲賀町高野字茨谷
築城年 : 室町期(正応年間) 築城年 : 室町時代
形  式 : 平城 形  式 : 丘
遺  構 : 土塁、虎口、 遺  構 : 土塁
訪城日 : 平成23年11月12日 訪城日 : 平成25年3月9日

歴   史

・・・・岩室城・・・・は、室町期の正応年間(1288〜92)に岩室大学家教が岩室を領して築いたと伝わるが、詳細は不明である。
岩室氏は、山中氏の一族で甲賀五十三家の一家で、鈎の役(長享元年・1487)で軍功をあげている。その子孫の岩室小三郎貞俊の時、豊臣秀吉に属していたが、天正13年(1585)紀伊川治水に関し罪を受け領地を没収され、廃城になったと云う。その後の元和年間、城跡には浄土宗の僧善調が寺を建立し、城の礎石等の石材を転用したと云われている。
・・・・高野城・・・・は、甲賀の高野地区を所領としてきた土豪である高野氏の城と考えられているが、詳細は不明である。


構造と感想
・・・・岩室城・・・・は、岩室集落の北端、野洲川の段丘崖上にあり、現在の広潭寺境内が城域とされる。一辺約50m四方の方形区画の縄張りと見られ、寺の本堂と庫裡の北側と東側に高さ約1.8m土塁が、南西隅に土塁基底部が残っており、本来は四方を土塁が囲繞していたと思われる。北側土塁の中央付近には開口部があり、虎口とされる。その虎口を出ると一段下がって段丘崖上の平坦地があり、これも郭であったと見られている。
伝承によると北面を除く東・南・西の三方に堀があったとされる。
基本的には甲賀に一般的な単郭方形の城館であったと思われる。 
・・・・高野城・・・・は、甲賀町高野のうち宮西集落の北方、集落より25m程高い丘陵先端部に位置している。その頂部に北と西面を土塁に囲まれた主郭あり、約35m四方の広さを持つ。北面の土塁は郭面から約4.5mの高さがあり、天端に拳ほどの河原石(投てき用の石礫と思われる。_)が多数散乱する平坦面を伴っている。主郭の東側から南東側に一段下がって帯郭状の平坦地(中央部が一段高く南北側が低く三つの区画に分かれる。)が付随するが、耕作用と思われる溜池や植林など後世の改変が加わっており、城域か判断出来ないようである。また、尾根続きの北側の鞍部に土橋状の遺構や横堀の地形が確認できるが、これも後世の改変とされる。
なお、城から北側に続く丘陵上で第二名神の建設に伴う発掘調査(滋賀県教育委員会)が実施されたが、城郭遺構や遺物は確認されていない。

道 案 内
・・・・岩室城・・・・は、国道1号と国道307号の交差部から鈴鹿峠方面に向かって7.4km程行った土山町の頓宮交差点で右折する。県道24号線に入り南進して岩室橋を渡った南詰めの交差点で南東方向の細い道にに進む。細い道を190m程道なりに行った左手奥が広譚寺で城跡である。
・・・・高野城・・・・は、新名神高速道を甲南インターで下りた最初の交差点である甲南IC口交差点で左折し、広域農道に入り560m程北進すると新治口交差点に至る。新治口交差点で右折して、東に2.4km程行くと突き当たりのT字路に至る。T字路を左折し、360m程北東に行くと県道4号線の野尻交差点に出る。そこを右折し県道4号線を道なりに2.2km程行くと右手側にJR草津線が接する所で左折する。人家が続く細い道を北東に220m程入った突き当たりT字路の前の小屋東側を丘陵に向かって登ると城跡である。

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岩室城 城跡の広譚寺 高野城 北面土塁内
岩室城 北側土塁の虎口 高野城 北側鞍部