No25365−10 No25365−11
高嶺東谷城 高嶺山城
(たかみねひがしたにじょう) (たかみねやまじょう)

高嶺東谷城主郭の北面土塁 高嶺山城主郭の北東面土塁

城郭の概要                 城郭の概要
別  名 : 別  名 : 高峰城
所在地 : 甲賀町高嶺字小林、美濃谷 所在地 : 甲賀町高嶺字杉ノ後、奥ノ谷
築城年 : 築城年 :
形  式 : 丘城 形  式 : 丘城
遺  構 : 土塁、堀、堀切 遺  構 : 土塁、堀、堀切
訪城日 : 平成23年5月14日 訪城日 : 平成23年5月14日

歴   史
・・・・高嶺東谷城・・・・
城主は高嶺氏とされるが、詳細は不明である。
・・・・高嶺山城・・・・
甲賀郡志の高峰城趾の項に、「大字高嶺の東方字権六山に在り。甲賀武士高峰蔵人子孫世々の居城とされ、天正年間(1573〜92)に同氏の衰亡とともに廃城となりし。」と記されている。この「高峰城」が「高嶺山城」のことである。

構造と感想
・・・・高嶺東谷城・・・・は、甲賀町高嶺地区の東谷集落の東背後に東から西に張り出した丘陵の先端部に築かれている。縄張りは、丘陵の頂部に東西約40m、南北約45mの主郭を置き、北西側と南西側下方に副郭を構えている。東側は丘陵続きで堀切を設け遮断している。
主郭は四囲を土塁で囲繞していたが、東面を除き殆ど削り取られ、南面は微高地が、北面と西面は断片の土塁が残る程度となっている。北面中央に開口しているが、北から一直線に山道が開口部に繋がっており、虎口の可能性が低いように思われる。
城跡全体が笹や立木に覆われ、堀切へは近ずくことも出来なかった。また、副郭は、異様に平坦に思われ、後世の開墾を強く疑われる。
・・・・高嶺山城・・・・は、集落南方にある丘陵の中で最も高い権六山(標高268m)に築かれている。集落からは離れており、東西の谷を隔て南に位置する伊賀見城や高嶺南城とともに、国境の防備を意図して築城されたと考えられている。
山頂部を削り込み方形に造成された主郭は30m×25mで、削り残した南西面を除く三方は土塁に加工されてている。南東面土塁の南端部は、南に突出し巾が広くなっており、櫓台または見張り台のように思われる。また、主郭から四方に派生する五本の尾根には、堀切が設けられている。南東の隅から南東と南西に伸びる尾根は二重の堀切になっている。なお、虎口や城道の痕跡は確認できない。
全体として高嶺地区の城郭遺構は手入れがなされておらず、満足感を味わえない訪城であった。

道 案 内
新名神高速道を甲南インターで下りて最初の交差点の甲南IC口交差点で左折し、広域農道に入り560m程北進すると新治口交差点に至る。新治口交差点で右折して、新名神沿いを東に2.4km行くとT字路に突き当たる。T字路を左折し北東方向に360m程進むと野尻交差点である。野尻交差点で右折して、県道4号線に入り道なりに5.5km程JR草津線沿いを進むと油日農協前交差点で、同交差点を右折して50m先のJR草津線を渡る。渡って直ぐのY字路で左手の油日小学校沿いの県道51号線に入り、南に道なりに3km程進むと緩やかな右カーブにさしかかる。
・・・・高嶺東谷城・・・・へは、そのカーブ中の高嶺バス停付近から左手に入る細い道路に入る。130m程東進した分岐で左折し川沿いの道を進み、45m程先の分岐を右に、後は道なりに50m程行くと舗装道は行き止まりとなる。行き止まりから南西方向に山道を50mも入れば城跡である。
・・・・高嶺山城・・・・へは、右カーブから100m程先で今度は左にカーブし、さらに南に400m程進むと東に入る道路があり、そちらへ左折する。200m程東進すると左手にグラウンドがあり、グラウンド東側の山裾から北東に100mも登れば城跡である。

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高嶺東谷城の南西副郭 高嶺山城主郭の北西面土塁内