No25364-10 No25364-11
高尾城 鮎河城
(たかおじょう) (あゆかわじょう)

高尾城 東側の堀切 鮎河城 北側の堀切

城郭の概要                 城郭の概要
別  名 : 鷹尾城 別  名 :
所在地 : 土山町鮎河字大谷 所在地 : 土山町鮎河字大谷
築城年 : 建武年間(1334-38) 築城年 : 建武年間(1334-38)
形  式 : 山城 形  式 : 山城
遺  構 : 空堀、堀切、竪堀 遺  構 : 堀切、竪堀、土塁、段郭、
訪城日 : 平成23年5月4日 訪城日 : 平成23年5月4日

歴   史

土山町鮎河は、南北朝時代に南朝方の拠点の一つであり、建武5年(延元3年・1338)に南朝方の唐崎侍従、頓宮肥後弥九郎が五辻宮守良親王を奉じて「鮎河城」に立て籠もったが、北朝方の佐々木秀綱に従った山中橘六、小佐治右衛門三郎、美濃部兵衛三郎等に攻められ同年2月に落城している。
その後、再び勢力を盛り返し、4月に鮎河の「鷲尾城」に立て籠もったが、再び落城して伊勢に逃れた。
「鮎河城」と「鷲尾城」は、建武5年4月の小佐治右衛門三郎基氏の軍忠状にその名が見え、一次史料で存在が確認される城館である。


構造と感想
・・・・高尾城・・・・は、土山町鮎河のうち東野集落の北東にある、高尾山と号する地蔵堂の北側の裏山に築かれている。この城は『太平記』に見える「鷹尾城」の可能性が高いとされる。
城は、標高408m、比高60mの山上の頂部に東西約30m、南北約10mの方形の主郭を設け、主郭の東西を二重の堀切で遮断している。南面は傾斜が緩く、横堀をめぐらし、そこから二本の竪堀を落としている。北面は急斜面に細い小さな腰郭を設け、短い畝状竪堀を設けている。小じんまりとした城ではあるが、しっかりした防備を施し、造り込まれた城砦である。こうした遺構から戦国期の城と見られている。
・・・・鮎河城・・・・は、土山町鮎河のうち東野集落の東、集落と鯎川に挟まれた標高444m、比高約100mの南へのびる尾根先端部に築かれている。尾根南端の頂部に南北約25m、東西10mの方形の主郭を設け、南北面に高さ0.5m程の土塁を築き、その外側に巾約10m、深さ約4mの堀切を穿っている。堀切の先は、竪堀とし落としている。南側堀切の外に四段の不明瞭な削平地がある。主郭から細尾根伝いの北約220mに巾約8m、深さ約3mの堀切、さらに北60m離れ巾約6m、深さ約3mの堀切が設けられている。この間も砦として機能したと見られる。
山城の西側の山麓には、黒川氏の菩提寺であった正等院の跡地があり、その下方には「殿下」の地名も伝えられている。それらの北方約140mの所に鮎河城伝承地として石碑を建て公園が整備されている。ここが、これらの山城とセット関係にあった黒川氏初期の居館と考えられている。
両城とも規模、縄張りともに良く似た城である。

道 案 内
・・・・高尾・・・・は、新名神土山インターを下り、国道1号に向かう。国道1号との前野交差点で右折して国道1号に入る。国道1号を1.3km程東進した土山支所前交差点で左折し県道9号線に入る。県道9号を道なりに5km程行くと青土ダムに至り、ダム堤体上を通り抜け更にダム湖・野洲川沿いに4km程進むと突き当たりのT字路となる。T字路を左折し県道9号線を650m程北進し、鮎河小学校を越えた所で右折する。集落内を300m程東に進み左手山裾に地蔵堂がある。地蔵度に駐車し、背後の山を東北東方向に直登すると城跡である。もしかしたら東側の鞍部へ登る道があるかもしれない。
・・・・
鮎河城・・・・
は、高尾城と一緒に訪城したので、高尾城から尾根伝いに一旦東に行き、南にのびる尾根に取り付く。その尾根筋を350m程南に行くと鮎河城に至る。

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高尾城 南側の横堀 鮎河城 主郭の南方向
鮎河城 館部の城址碑