No25364−01 No25364−02
今宿城 大野山本城
(いまじゅくじょう) (おおのやまもとじょう)

今宿城 横堀 大野山本城 中の郭

城郭の概要                 城郭の概要
別  名 : 別  名 :
所在地 : 土山町大野字千代 所在地 : 土山町大野字山本
築城年 : 築城年 :
形  式 : 平城 形  式 : 平城
遺  構 : 土塁、横堀、虎口 遺  構 : 土塁、横堀、土橋
訪城日 : 平成23年11月12日 訪城日 : 平成23年5月4日

歴   史
・・・・今宿城・・・・の城歴等の詳細は不明であるが、江戸時代になってこの地が宮川藩堀田氏領となり、今宿城跡地に陣屋屋敷が置かれ、後に南方の八幡神社東側に移ったと伝えられている。
・・・・大野山本城・・・・の城歴等の詳細は不明であるが、大野氏に関係する城郭か。

構造と感想

・・・・今宿城・・・・は、土山町大野のうち、西方の東海道に沿って形成された今宿集落の南にあり、堀底道で繋がる複数の区画が残存する。
遺構は、旧東海道と国道1号線に挟まれた雑木林の中、南西部に四方を土塁に囲まれ方形を指向した郭が完存している。規模は、郭面で東西約30m、南北約25mを測り、土塁は西側が約7m、南側が約5m、北側が約4m、東側が約3mの高さを有し、その南面の西端に虎口が開いている。虎口を出ると目の前に自動車販売店が迫っている。この郭の東側と北側は、横堀が取り巻いており、土塁上からの深さが2〜4m程ある。
東側の横堀を挟んだ対面に四囲を土塁が囲繞する郭面で東西約35m、南北約20mの長方形の郭が存在する。東半分程の土塁は破壊を受けているが、南東隅に残る土塁基底部が曲尺状に屈曲しており、土塁が四囲を囲繞していたと推測できる。北面土塁の中央付近には、二か所の土塁の途切れがあり虎口の可能性があるとされる。また、南側と北側の西端に横堀の痕跡が残り、その外側にも土塁が設けられている。北側の土塁は、完存する郭の北側を途中折れが入りながら西端まで続き、北側に屈曲している。土塁の北側は、今宿公民館や畑地になっている。
この他、昭和30年代の航空写真で西側の集落背後にも土塁があったことが確認されており、水宿城は植城(水口町植)や伊佐野城(水口町和野)と同じく群郭式・同名中型の平地城館であったと考えられている。
江戸時代になって、この地は宮川藩堀田氏領となり、今宿城跡地に陣屋屋敷が構えられ、のちにその南方へ移転したと伝えられている。
・・・・大野山本城・・・・は、土山町大野のうち片山集落の北側「トンノシロ」と呼ばれる付近の河岸段丘端部を利用し築かれている。北側背後に堀と土塁を設け、南側前面が段丘崖となっている。
遺構は、集落中央を南北に突き抜ける道路東側の遺構が比較的よく残るが、道路西側にも土塁の痕跡と思われるマウンドや集落西縁部に屈曲を想像させる土塁の断片が残っており、道路西側へも城域が広がっていた可能性がある。
道路東側には、東西約90mに及び堀と土塁がのびており、東端では堀、土塁とも曲尺状に南側に屈曲している。堀は城外側で1m、土塁側で2〜3mの深さがある。城内側が段丘下方となるため、土塁の城内側は3〜5mの高低差がある。この北面土塁の2か所からは、南方へ仕切り土塁がのび、三区画に区分している。
東の郭は約20m四方が残るが、南側が宅地で削り取られ旧状は不明である。
中の郭は、東の郭より約2m低く、東西約35m、南北約25mで最も広い。東側の土塁は東の郭と共有で、南に行くに従い低くなり、南端で約2mとなる。また、南面の段丘崖上に東側半分程に高さ約2mの土塁が残っている。南西隅部は畦程度の高まりとなる。
西の郭は、東西約25m、南北約10mの南側がやや下がる区画 と 堀状の溝を隔てて南側に東西約25m、南北約12mの南方に緩やかに傾斜する区画があるが、いずれも宅地には不向きな郭面である。
稲川を挟んで南方には、大野城(大野氏邸)が所在する。


道 案 内
・・・・今宿城・・・・は、国道1号と国道307号の交差部から鈴鹿峠方面に向かって3.3km程行った土山町の大野西交差点で左折し旧東海道に入る。東に道なりに740m程行くと右手に今宿公民館があり駐車できる。その南側の雑木林が城跡である。
・・・・大野山本城・・・・は、国道1号と国道307号の交差部から鈴鹿峠方面に向かって4.5km程行った土山町の徳原交差点を直進し、160m程通り過ぎてT字路を左折する。集落内を380m程北上した道路の両側が城跡である。

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今宿城 北の土塁 大野山本城 北側の堀
大野山本城 北側の土塁