No25363−36 No25363−37
嶬峨西城 嶬峨城
(ぎがにしじょう) (ぎがじょう)

未訪である。
嶬峨城 北虎口と堀

城郭の概要                 城郭の概要
別  名 : 別  名 : 山屋敷、備後城、堀田陣屋
所在地 : 所在地 : 水口町嶬峨字山屋敷・大谷
築城年 : 築城年 : 室町期元久年間(1204-06)
形  式 : 形  式 : 山城、陣屋
遺  構 : 遺  構 : 土塁、虎口、櫓台、堀、竪堀、
訪城日 : 平成 訪城日 : 平成23年11月12日

歴   史
・・・・嶬峨城・・・・は、儀俄氏の城と伝えられる。儀俄氏の本拠は嶬峨上田集落の西蓮寺近く小字東上平の小学校跡地「元屋敷」に所在したと『甲賀郡志』に記されており、位置関係から「元屋敷」と「山屋敷(嶬峨城)」は居館と詰城の関係と考えられている。
儀俄氏は、蒲生氏の分流で権五郎俊光を祖とし、元久元年(1204)に観学院領嶬峨庄の下司となり、儀俄氏を称した。永仁4年(1296)第六代の左衛門太郎頼秀は嶬峨庄預所職並定使、さらに下司新給五町を給られた。知俊、氏秀と続き、永和元年(天授元、1375)、嵯峨庄地頭職に補せられ、また、近江国守護佐々木高経からは内談衆に任ぜられた。至徳2年(元中2、1384)には、室町将軍足利義満に地頭他諸職に任ぜられた。長享元年(1487)には、鈎の陣で儀俄越前守は守護六角高頼のために戦功をたて、甲賀武士五十三家に数えられる。永禄11年(1568)主家の六角氏が信長に滅ぼされるが、蒲生氏は信長の勧誘に応じて、いち早くその配下に属したため、儀俄氏も所領を安堵されたものの、天正13年(1585)甲賀破儀のにより城、邑とも没収され滅亡したとされる。
なお、江戸期には、旗本堀田家5000石の所領の一部として甲賀郡が与えられたため、所領各所に陣屋が置かれ、その中の一つとして嶬峨城跡に陣屋が設置された。

構造と感想
・・・・嶬峨城・・・・は、水口町東部の野洲川南岸に営まれる嶬峨上田集落の南、玉泉寺と稲荷神社が建つ小字「山屋敷」の丘陵上に築かれている。
城の構造は、甲賀で一般的な大規模な土塁に囲まれた単郭の縄張りで、郭はやや歪な台形状を呈し、東西30m、南北25mの規模を有する。虎口が北に開き、その両脇の土塁は幅が広く櫓台になっている。虎口の前面には土塁が設けられ、土塁に沿って右に折れ、土塁の東端から北に出る。土塁の間は堀底道で、東端が竪堀となって落ちるので、その際で北へ折れる。前面土塁の外にはもう一本土塁があり、二重土塁、二重堀の堅固な防備となっている。二重土塁・堀の北側は神社境内で、尾根先の有利な立地にあるが、城外と見られている。郭を巡る土塁は、南東隅に張り出した部分でも分厚く、高くなっており、背後から城内、山麓を見下ろす櫓台であったと考えられている。
この丘陵の東麓には、東西約30m、南北約25mの郭を中心に麓へ下る土塁を伴う大手道が設けられ、その両側に数段の郭を配した陣屋跡が残る。また、西麓にも平坦地があり、これらも陣屋に関係する遺構と見られている。
なお、嶬峨城南東隅の櫓台西側に開口部があるが、これは陣屋時代に連絡のための改変が行われたと推測されている。
現在は郭内をはじめ多くの遺構がブッシュに埋もれている。

道 案 内
・・・・嶬峨城・・・・は、国道1号の水口町今郷のランプで県道126号線に下り、南進方向に曲る。県道126号線を南に道なりに1km程行くと嶬峨集落で、県道は右に折れる。右折れから300m程先で左手の直進方向の細い方の道に入る。その道を250m程進むと左手に分かれる道があり、そちらに入り50mで稲荷神社への階段下に至る。階段を登り切った神社境内左奥が城跡である。

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嶬峨城 北虎口前の二重土塁
嶬峨城 北虎口の櫓台